『晴れの国』と大々的に謳っている岡山だが、流石に五月の後半ともなれば灰色の雲に覆われる日が多くなってきた。更に湿度も高くなり、遂にアノ季節がやって来た。
テレビを点けると天気予報士が「本日、気象庁から中四国地方全般が梅雨入りしたと発表されました」と真顔で告げる。
幾分か早い気もするが天気予報士曰く、これが平年並みらしい。
そんな日でも当然のように僕は佐々木の家に居た。
『恋愛ごっこ』は公開以降も好調を維持し、前作の再生回数を既に上回っていた。そんな再生数を眺めながら、台所にある丸椅子に座り、正面に座る佐々木のギターを聴いていた。
「やっぱり写真をちりばめたのが良かったのかも。今後は歌だけじゃなくて、動画にも拘った方が良さそうね」と佐々木が嬉しそうに呟く。それを聞いた僕は「前みたいに藤田先輩の歌う場面がなくても再生数が伸びてるのは、やっぱり歌が良いんだよ。恋愛ソングっていうのもウケてるかもしれないけど…」と付け加えた。それについて佐々木が何か意見を述べようとした、その時だった。
――リリリリ――
会話を遮るように部屋の隅にあった固定電話の事務的な着信音が鳴り響く。初めて聞く着信音に困惑したが、それ以上に家の主である佐々木の方が表情を曇らせている。電話に出ようか迷っている様子だが、一向に鳴り止む様子を見せない着信音の催促に折れる形で渋々ながら椅子の背もたれに手をかけて片足でゆっくりと立ち上がった佐々木は壁伝いに電話のある部屋の隅まで向かう。気になったので僕も佐々木の後を追う事にした。
「はい、佐々木です…… 叔父さん」
電話越しから微かに零れる相手は男性のようで、相手が一方的に何かを話している。しかし言葉までは聞き取れず、その内容は全く理解できなかった。佐々木は相手に合わせるように何度か相槌を打つ。しかし、その表情は徐々に険しくなる。
男性からの話が一通り終わったようで、受話器越しから何も声が聞こえなくなると家中が沈黙に包まれる。佐々木は壁に掛かっていた数字だけのカレンダーを眺めながら「それじゃあ、今週の土曜日に行きます」と告げる。そのあと、電話越しから一言だけ何か声を掛けられた後で佐々木はゆっくりと受話器を戻した。その直後、佐々木はしばらく電話の前で魂が抜けたように呆然とした表情でカレンダーを眺めたまま立ち尽くしていた。
「大丈夫?」
そんな僕の声でようやく佐々木は我に返ったように、慌てた様子で「大丈夫よ」と返すが、明らかに動揺している。
詳しい事情を尋ねたいが、他人のプライベートに何処まで踏み込んで好いものか分からない。
聞こえてきたヒントは、相手が叔父さんということと『今週の土曜日に行きます』ということだけ。今日が木曜日だから明後日の話になる。
わざわざ週末に向かわなければならないということは近場ではないのか、それともお互いの都合を考慮しただけなのか。そもそも、義足を周囲に知られたくない佐々木は基本的に外出を嫌う。そんな佐々木が週末にわざわざどこかに向かうというのだから、余程の事情があるのだろう。暗い影を落とす佐々木の表情を見ると心配にならない訳がない。そんな様々な憶測を巡らせていると次第に胸の奥がざわめきはじめた。このまま佐々木を一人にしておくと何か悪いことが起こりそうな気がする。こんな時、僕はいつも一歩退いて他人と自分との間に明確な境界線を勝手に引いて立ち入らないようにしてきた。そして正解のない難題にもがいて、結局は何もできないまま後悔して終わる。そんな人生の繰り返し…… 故に、何の成長もない…… そんな想いはもうしたくない。そう思った瞬間『限りある時間を有効活用するには、たくさん挑んで失敗するしかない』と、いつか誓った自分の言葉が胸の奥底まで突き刺さった。そうだ、一歩踏み出す勇気を今この時に出さないと僕はいつまでも成長できないし、一生後悔したまま終わってしまう。例え、佐々木に嫌われても僕は僕に後悔したくない。
「あのさ、今週の土曜日、一緒に行ってもいいかな?」
「えっ?」
勇気を振り絞った僕の唐突な提案に、佐々木は呆気に取られたように目を丸くして振り返る。
「なんか、急に旅がしたくなったんだ」
適当にしても下手過ぎる言い訳を付け加えてみた。そんな僕に対して、佐々木は何かを察したように暗い影の隙間から僅かばかりの柔らかな笑みを浮かべて少しだけ頷いた。
その笑みに少し救われたが、それでも佐々木が先ほど浮かべていた暗い表情が、不吉な象徴として僕の心の奥底に焼き付いてしまっている。月曜日には学校がある。場所は何処か分からないが、最長でも一泊二日の旅行だ…… あれ? 冷静に考えて年頃の男女が二人きりで泊まりのある旅行に行くという事だよな。今まで主観が強過ぎたせいで気付かなったけど、今更になって、僕は随分と大胆な提案をしてしまっていた。それでも佐々木は拒まなかった。客観的な状況を整理すると、もうそういう関係なのだろうか――
週末になり、六月に入ったばかりの梅雨空は裏切らない。だらしなくも妖しい雨の匂いが憂鬱を添えてくる。
午前六時三六分。ミストシャワーのような小雨が舞う岡山駅の東口。待ち合わせ場所の噴水で僕は紺色の傘を差して待っていた。雨の日にこの噴水は何を思っているのだろうか? 自分の仕事を完全に奪われ、存在意義まで否定されて不貞腐れていないだろうか? そんなどうでもいいことを思いながら待っていると、いつものぎこちない歩き方で佐々木の姿が遠くの方から見えてきた。右肩に大きめの黒いショルダーバッグを掛けて左手に赤い傘を差している。
それよりも驚いたのは外出しているのに佐々木はメガネをしていなかったことだ。コンタクトレンズでもしているのか? と疑問に思いつつ、僕は慌てて佐々木の元に向かい「持つよ」と黒いショルダーバッグを持とうとしたが「大丈夫よ、これくらい」と一掃された。
「メガネはどうしたの?」と僕は堪らずに尋ねると、佐々木は少し俯きながら「なんとなくよ。天気が悪いし、こんな日はコンタクトレンズの方が都合いいと思ってね」と返す。
しかし、その日から佐々木のメガネ姿をあまり見なくなった。
こんな日か。雨で足元が滑るかと思った僕は昨日に佐々木の家まで向かい、一緒に駅まで来ようと提案した。しかし佐々木はその提案を拒否した。極力他人に頼りたくない性格は変わらないようだ。
「それより待った?」
「全然」
嘘だ。今日の日程が決まった日から小心者の僕は佐々木に旅の詳細を聞けないまま過ごしてきた。そして最後まで聞けず仕舞いのまま今日を迎えた。故に昨夜も不安で寝付けず、予定よりも早く家を出た。だから三十分前には到着していた。
この雨のせいで、Tシャツ一枚だと随分と肌寒く感じる。佐々木は白いカーディガンを羽織って暖かそうだ。僕も上に何か羽織る物を着てくれば良かったと既に後悔している。
「随分と少ない荷物ね。大丈夫?」
佐々木から旅の行き先を聞いたのは昨夜のメールだった。目的地は仙台ということだ。しかし、この時の僕は仙台に対して何の疑問も抱かなった。その時点での情報量と、ちょっと思考を働かせればすぐに答えに辿り着けたはずなのに……
結局、旅行は想定通りの一泊二日だった。何かと荷物の多い女性と違い、男の荷物なんて替えの下着と洗面用品があれば十分だ。小さなバック一つで収まる。
「大丈夫。それよりも新幹線の時間は?」と尋ねると佐々木は駅前に設置されている電子時計を眺めながら「そうね。ちょっと早いけど行きましょうか」と言って、再びぎこちない足取りで歩みはじめる。そんな佐々木の歩く速度に合わせて僕も一緒に歩き出すが、やはり佐々木の歩く速度は普通の人に比べて明らかに遅かった。その辺をしっかりと考慮して、いつもより早めに行動しよう。それに普段あまり動かない佐々木の体力を考えると、休憩もこまめに取った方がいいのかもしれない。何にしろ、僕ができる範囲で支えて行くとこの前に誓ったばあkりなのだ。
みどりの窓口は早朝ということもあり客は疎らだった。土曜日だから、もっと多くの客でごった返しているのかと覚悟していただけに少し安堵した。チケットを購入して二番線ホームに向かうまでにある売店も飲食店もまだ閉まっていた。いつも賑わっている場所が静けさに包まれているだけで、妙な不安を煽り立てられている気がした。そんな商業施設を抜けて東京方面と書かれたエスカレーターを登る時、僕はさり気なく佐々木の一歩後ろの段に乗って「まだ早い時間だから人が少ないね」と声をかけてみた。
「そうね」と佐々木も返事するが、その後の会話は続かない。そんな気まずい沈黙を抱えたままエスカレーターを登りきると既に二番線ホームに七時二分発ののぞみが停車していた。新幹線に乗るのは何年振りだろうか……おそらく、中学生の修学旅行以来だ。
久々の新幹線に少しテンションが上がるものの、佐々木の口数の少なさが気になる。おそらく、これから向かう仙台に原因があるのだろうが、佐々木からは何も話してくれない。僕もあえて聞かないでいる。早かれ遅かれ仙台に着けばすべてが分かる筈だ。
独特な清潔感を醸し出す新幹線の車内に乗り込むが僕たち以外の乗客は見当たらない。
「東京で乗り換えだから、昼過ぎには仙台駅に着くわね」
久々に佐々木の方から話す内容も最低限の事務的なものだ。怒っている訳ではない。しかし機嫌が好い訳でもない。冗談を言えるような雰囲気ではない。こんな時、どんな会話が適切なのだろうか?
そんなことを考えながら、連結部分から入る扉の上部に設置されている電子掲示板を眺めていると昨夜のプロ野球の結果がスクロールされる。ヤクルトは昨日も負けたらしい。そんなことを思っていると童謡・桃太郎をアレンジした音と共に新幹線の扉が閉まる。程なく新幹線が滑らかに動きはじめた。隣り合って座る僕と佐々木の横で車窓が景色を流し始める。
「そういえば、東京を経由するんなら、その時に藤田先輩に会えないのかな?」
昨日のメールでのやり取りで藤田先輩と会えないか聞いてみた。その後に、佐々木の方から藤田先輩に連絡を取って尋ねてくれた。
「無理そうね。どうしても外せない予定が入ったらしいのよ」
「それは残念」と言いつつも、瀬戸内芸術祭で夕焼けに照らされた藤田先輩の横顔を思い返し、複雑な気持ちを抱いていた。もしかすると、藤田先輩は佐々木に対する想いにまだ整理が付いていないから再会を拒んだのかもしれない。
「まぁ、しょうがないわね、忙しいみたいだし。またの機会にしましょ」
そう言って佐々木は肩を竦めると、車窓に視線を向けて遠くの景色を眺める。今日はいつになく会話が続かない。いつもなら沈黙が続こうとも佐々木となら居心地がいいと思えるのに、今回は漠然とした不安が募るばかりだ。やはり今日の佐々木は、というよりも、正確に言えば叔父さんから電話があった日を境に、佐々木は落ち込んでいるように思える。あの時は然程気にならなかったが今になって思えば、どうして叔父さんなのだろうか? 普通に考えれば、大切な用事は両親から電話が来るはずだ。そういえば、佐々木は以前に「両親は遠くにいる」と言った。具体的な場所を言わなかったから、僕は勝手に県外か海外とばかり思っていた。しかし、普通に考えて片足のない娘を放って海外に行くだろうか…… 僕はここで推察を止めた。いや、行き着く結論が怖くて、これ以上の推察を強制的に止めていた。
ヒントは仙台。その土地を耳にすると嫌でも二年前の東日本大災害を思い浮かべてしまう。ずっと岡山に住んでいた僕からすれば、他人事のようにしか捉えられなかった。紛れもなく同じ国で起きた大災害。ニュースで流れた津波の映像が脳裏に浮かぶと、僕の背筋に悪寒が走った。二年経っても復興などまだ道半ばだろう。そんな仙台に佐々木は一体、何をしにいくのだろうか? 答えはもうすぐ分かるというのに、今になって臆病風に吹かれ始める。
その後も特に会話らしい会話もないまま、新幹線での殆どは音楽を聴きながら眠っていた。すると、僕等を乗せたのぞみは定刻通り東京駅に到着した。
ここで乗り換えになるが、あまり時間が無かった。僕は急いで佐々木と二人分の弁当を購入し、そして先に向かわせた佐々木の待つホームに全速で走った。
「余裕で間に合ったわね」
佐々木が言うように意外と時間に余裕ができた。しかし、特に何もすることも無かった。半透明のビニール袋に入っている幕の内弁当の、特に鮭の匂いが空腹を誘う。
「それじゃあ、乗って食べましょうか」
「そうしよう」
僕らは既に停車していた秋田新幹線に乗り込み、昼食を取ることにした。
秋田方面に向かう新幹線の乗客は少なく、自由席の三車両のほとんどが空席だった。そんな静寂の車内と、弁当でお腹が満たされたせいか急に睡魔が襲ってきた。再び隣り合って座る佐々木と何か話そうと思ったが未だに適当な話題は見当たらず、沈黙のまま新幹線が動きはじめる。それが意識のあった最後の光景だった――
ゆらゆら、うつらうつら。
――気付けば見覚えのない公園に立っていた。見上げた空は夕暮れから徐々に暗くなりつつある宇宙色に染められていた。
この公園は随分と都会にあるのか、公園の外の大通りには多くの人々が往来していた。その大勢の誰もが家路を急いでいるような無表情で通り過ぎて行く。
しばらくそんな死神の列を眺めていると、公園の隅からフォークギターの音色が生暖かい風に乗って聴こえてきた。
ギターの発信源を探すと公園の隅に置かれた白いベンチに座り、黒いフォークギターを弾く佐々木の姿が視界に捉えた。
これは夢だ。
すぐに分かった理由はただ一つ。ギターを弾く佐々木はしっかりと自分の両足を組んで、何処にでも転がっていそうな甘ったるいラブソングを歌っていたからだ。僕の知る佐々木は片足だし、そんなラブソングは歌わない。そんな憤りに近い疑念を抱く。すると、ギターを弾いていた佐々木の前に見知らぬ男が近づき、話し掛ける。
何を話しているのか、僕の居る場所から遠すぎて言葉のひとつも聞こえなかったが随分と親しい距離感で二人ともえがおだった。一通り会話を済ませた後で佐々木は笑顔で立ち上がり、その男の手を握りしめる。そして肩を寄せ合いながら歩き始めると、やがて無表情の人並みに呑み込まれるように消えて行った。そんな光景を見た僕は、何故か涙を流していた。
こんな残酷な公園で僕は何をすればいいのだろうか?
ただただ立ち尽くしていると、人並みの中から明らかに場違いな豪華なパーティーで着るような黒く輝くタキシードを着た男が公園に紛れ込んで来た。頭には大きなシルクハットを被り、その素顔は影になって全く見えなかった。
そんなシルクハットの男は周囲を見渡すと僕を見つけて驚いたようにわざとらしく大きく両手を上下に振る。そして徐に近づき、目の前までやってきた。影で見なないと思っていた顔の部分は、本当に影そのものだった。いや、目を凝らしてみると黒い靄が顔全体を覆っていた。そんなシルクハットの男は僕を頭の先から足の先までじっくりと観察する。そしてシルクハットのつばを手に添えて「もしや、そのポケットの中で眠っている骨は極楽鳥ではありませんかな?」と尋ねてきた。想像以上に甲高い声に気味悪さを感じた。それに共鳴しているようにハウリングを起こして耳障りが悪かった。
それにシルクハットの男はどうして骨のことを知っているのだろうか?
僕はポケットから骨を取り出すとフェリーに乗っていた時と全く同じ輝きを放っていた。
「あぁ、これはダメだ。きみはこちらの世界の人間じゃないんだね。だったら、早くあちら側に戻るんだ。こちら側のきみと出会ってしまうと二度ときみはきみとして認識できなく強制的に宇宙の源に還ってしまう」とシルクハットの男は慌ててその骨を僕のポケットに戻そうとする。
ポケットから太腿に伝う骨の温もりが懐かしくも切なく感じた。そして公園の風景が蝋燭のように溶けながら消えて行く。
「あなたは誰ですか?」
消え逝く景色の中で僕は咄嗟に彼の正体を尋ねる。
「私は東京ダビンチ。何処にでも居るし、何処にも居ない」とシルクハットのつばに指を添えてエレガントにお辞儀をする。そんな時に『東京ダビンチは噓つき』と僕の耳元で誰かが囁いた――
ゆらゆら、うつらうつら。
――今が夢なのか現実なのか分からない状態で車窓を何気なく眺めると津波で倒壊した街並みが姿を現していた。色も生活も希望も一瞬で奪った震災の爪痕……悲惨な光景を目の当たりにした途端、一気に眠気が覚めた。そう醒めたはずなのに、今まで以上に夢なのか現実なのか混乱している。
テレビの中で当たり前になっていた光景が、実際に自分の目に現れた瞬間に恐怖で手足の末端が震えている。そして改めて佐々木がこの地を訪れた理由が気になる。しかし、今になっても佐々木に尋ねられないのは、得体も知れないプレッシャーにも似た恐怖心が僕の口を塞いでいるからだ。そんな疑問も、もうすぐ答えが出るはずだ。或いは、既に幾つかの憶測はできる。しかし、その憶測のどれもが全く幸せになれない結果を招いてしまう。そんな複雑な想いを募らせながら臆病な僕は軽い気持ちで重い答えを待つ事にした。
定刻通り、一二時五二分に僕らを乗せた新幹線が仙台駅に到着する。
岡山と同様に仙台の上空にも灰色の雲に覆われいた。ただでさえ震災で傷だらけになり、現実味を遠ざけている街は日中だというのに薄暗く不気味さを増長させていた。これが戦争ならば憎むべき対象が幾らでもあるのに、天災というだけで人間は無力になってしまう。
そんな安っぽい感傷に浸る僕とは対照的に、ぎこちない歩き方で新幹線を降りた佐々木は迷う事無く在来線のプラットホームへと向かった。しかし、その表情は明らかに憂鬱を孕んでいた。震災の光景を見れば誰だって滅入ってしまうだろう。しかし佐々木の場合は僕とはまた異なる複雑な心境を含んでいるような無表情を浮かべている。こんな時に限って、ポケットの中で眠る骨は何の反応も示さない。何とも気分屋な骨だ。
「ここに荷物を預けておきましょう」と駅内のロッカーに佐々木は黒いショルダーバッグを入れる。それでも幾分かロッカーに空きがあった為、僕の少ない荷物も一緒に入れてもらうことにした。
北陸鉄道はいまだに復旧しておらず、案内所では通れない路線の注意喚起の貼り紙があった。その中でも幾つかの使用できる路線を探して目的地に近い最寄り駅を探した。
数分ほど路線図とにらめっこした挙句に「よく分からないわね」と諦めた佐々木は近くを歩いていた駅員を捕まえて最適な電車を尋ねた。
結局、駅員に聞いた通りに臨時運行していた電車に乗って二〇分程で利府駅に到着する。全く知らない駅名に僕は思考が停止する。恐らく佐々木に任せっきりだったからだろう。
電車から降りると閑散とした小さな無人駅だということが分かった。周囲に民家は数えるほどしかなかった。コンビニは愚か売店すら見当たらない。そんな田舎の駅前だったが、空車と表示されたタクシーが三台ほど暇そうに待ち惚けていた。
「ここからはタクシーで向かうわ」と佐々木は後部ドアが開きっぱなしになっていた緑色のタクシーに顔を入れて「行けますか?」と運転手に尋ねた。白髪交じりの男性運転手はバックミラー越しに佐々木を見て、何も言わずに頷いた。「大塚、乗るわよ」と言って、義足を庇うようにゆっくりと乗り込む。佐々木に言われるがまま、僕も佐々木の隣に乗り込んだところで「役場までお願いします」と佐々木が運転手に告げる。
それを聞いた運転手は何も言わずに再び浅く頷く。僕らがシートベルトを着用した事を確認すると、後部ドアが勝手に閉まりタクシーが徐々に動き出す。
佐々木は『役所』と言った。それが今回の目的地なのだろうか? それとも、また役所を経由して他の目的地があるのだろうか? そんなことも知らない自分に今更になって呆れてしまう。
仙台に入って未だに落ち着かない心で車窓から流れる景色を眺めていると、海に近づいているのか倒壊した建物が増している気がした。あの日に崩壊した建物が今もそのまま残っている。それも一つ二つではなく、僕の目に見える範囲の殆どはまともに原形を留めていなかった。遠くの方には舗装されていない茶色い土で固めただけの発展途上国のような道路があり、その上を大型のダンプカーが多くの土を載せて忙しく行き来している。更に遠くに見える白いプレハブの仮設住宅は身を寄せ合うように並んでいた。
これがこの街の日常……二年という期間では、復興するには短すぎるようだ。復興どころか最低限の生活もままならいようだ。ニュースで見た映像がそのまま目に入ってきただけなのに、テレビでは伝えきれないその場の緊迫とした雰囲気がそこら中に漂っていた。そんな災害に対して僕は何か行動しただろうか? ボランティアに参加したか? 何か支援物資を送ったか? 一円でも募金をしたか? 僕は何もしてない。行動しようという思考すら至らなかった。今まで他人事のようにニュースを眺めていた自分の無知さに今更になって罪悪感が襲い掛かってくる。
そんな僕の弱い感情が揺さぶられ続けていると、比較的新しい茶色いタイルで覆われた建物の前でタクシーが停車する。建物の前には利府町役場と書かれた銀色の看板が掲げられていた。
「このまま待っていてください」と運転手に告げた佐々木は義足を大袈裟に振りながら足早に役場へと向かう。一瞬だけ迷ったが、僕も佐々木のあとを追うことにした。
建物に入ってすぐの付き辺りに小さな簡易テーブルの受付が待ち構えていた。そこには女性職員が一人だけ立っていた。そんな不自然なまでの静寂に包まれた受付で佐々木は女性職員と短く会話を交わす。佐々木との会話を終えると女性職員はテーブルの上に置かれていたたくさんの書類の中からオレンジ色の紙を取り上げて佐々木に渡した。そして用紙の上から順番に説明を始め、女性職員は胸ポケットに差していたボールペンを佐々木に手渡す。
職員の指示通りに佐々木はオレンジ色の用紙の上の欄から順番に何かを記入しはじめる。一通り書き終えると、佐々木は自分の財布の中から身分証明書を取り出し職員に提示する。すると、「確認をお願いします」と女性職員は奥の部屋に声を掛ける。
しばらくして奥の事務室から男性職員が出てきて水色の書類を佐々木に渡す。そして女性職員は佐々木が何か記入したオレンジ色の書類に2種類の判子を押して佐々木に渡す。
随分と慣れている様子で滞りなくやり取りは進むが、職員にも佐々木にも明確な表情はなかった。震災は人の命だけでなく、生き残った人の表情まで殺すらしい。それは現地にいなければ分からない発見だ。そんなことを思っているうちに提示していた身分証明書を返してもらった佐々木は軽く会釈を済ませて「行くわよ」と僕に言い、再びぎこちない歩き方で外に出ると待たせていたタクシーに再び乗り込み、今度は「総合病院までお願いします」と告げる。一連の流れを俯瞰して見ると間違いなく僕は不要だ。それどころか邪魔な存在になっている。そんな不安に圧し潰されながらタクシーに揺られる間も、佐々木は何も言わずに流れる景色を眺めていた。今までの状況から察するに、この瓦礫と化した町が佐々木の故郷なのだろう。そんな佐々木のつぶらな瞳の奥には何が映っているのだろうか。……幼い頃の思い出。震災時の恐怖。震災後の不安と孤独……何にしても、もうこの旅の目的の大よその検討は付いてしまった。僕は僕なりに覚悟を決めたのだが、この程度の覚悟でこの先、本当に耐えられるのだろうか? 全く自信が湧かない。
タクシーが目的地に着く頃になっても僕の内心に平常心は訪れなかった。それでも、これから訪れる残酷な現実を受け入れる覚悟だけは強く持っていようと思う。
「総合病院です」
はじめて聞いた運転手の渋い声に少し驚きつつ、僕が財布を取り出そうとすると、素早く佐々木が先に運賃を払ってしまった。「僕が出すよ」と言っても佐々木は首を横に振り、そのまま何も言わずタクシーから降りてしまった。出し掛けた財布を再びポケットに仕舞い僕も運転手に軽く会釈をしてタクシーから降りる。
灰色の空が幾分か薄れていたが、それでもまだ太陽は伺えない。
総合病院というだけあって三棟の大きな建物が寄り添うようにそびえ立っていた。何階建てだろう? 立ち止まって見上げたいが、今は入口に急いで向かう佐々木を追う方が優先だ。僕も早足で佐々木のあとを追いながら入口を目指した。
大きなガラス製の自動扉を潜るとすぐに総合案内所と書かれた看板があった。その前では控えめに手を挙げる黒縁メガネをかけた少し長髪の男性が目に入る。それに気づいた佐々木は会釈しながら男性に近づく。
「叔父さん、来てくれたんですね」
「うん、仕事がひと段落付いたからね。半日休暇を貰えたんだ」
そんな会話を済ませると当然のように叔父さんは僕の方に視線を移す。佐々木と電話をしていた相手で間違いないだろう。まだ三〇代後半位の見た目で、叔父さんと呼ぶには若い印象だ。
「こちらの方が昨日言っていた子かい?」
佐々木は昨夜のうちに僕も同行することを伝えていたらしい。
「どうも、大塚です」
「どうも、優子が世話になっているみたいだね。梅原です」
軽く会釈する僕に対して梅原さんは優しい笑みを浮かべ「そうか、きみが大塚君か。よく同行してくれたね。ありがとう」と強引に握手をしてきた。
梅原さんの予想外の行動に「いえ、自分で望んで来たので」と慌てて謎の謙遜をした。そんな僕等のやり取りに佐々木は一瞬だけ口元を緩めたが、再び表情を曇らせ何かを覚悟した強い眼差しで「それじゃあ、ちょっと行って来るわ」と言い残すと一人で歩き始め、総合受付と書かれたカウンターに向かう。そんな佐々木の後ろ姿を僕と梅原さんはただ見守る事しかできなかった。受付に到着した佐々木は事務員らしき女性に、先ほど役所で貰った書類を提示する。
そんな佐々木を遠目で眺めながら梅原さんは「意外だったな。優子が友達を連れて来るなんて。優子は学校に馴染めているかい?」と心配そうに話し出す。
「はい、特に問題はないと思いますけど」と曖昧に返事する。
「義足だから周囲に馴染めないんじゃないかと心配していたんだよね」と親心を滲み出させる。僕も会話を続けたかったが、梅原さんは僕が佐々木の事情をどこまで把握しているのか知っているのだろうか?
率直に佐々木の両親について尋ねたいが、仙台に向かう辺りから察しは付いている。更に被災地の惨状を目の当たりにした辺りから確信に近い心境へと到達していた。
どこまで佐々木のプライベートに踏み込んでいいのか分からないが、もう引き返せないところまで来てしまった。逆に知らない方が失礼なくらいだろう。
「あの、岡山に佐々木さんの親族はいないんですか?」
意を決した僕の質問に、案の定というか梅原さんは少し驚いた表情を浮かべた。それだけで、もう確信に変わった。
災害で佐々木の両親は亡くなったんだ。
そんな暗い表情をした僕の状況をすぐに察したようで、梅原さんは言葉を慎重に選ぶようにゆっくりと話し出す。
「何も知らないでここまで付いて来てくれたんだね。本当に優しいな。君は」
「どうして、佐々木さんは一人で岡山に?」
「あぁ、優子が今住んでいる家は私の祖父母が昔住んでいた家なんだ。その祖父母も四年前に亡くなってね。残された家をどうしようかと困ったまま放置していたんだ」
「だからって、片足を失った佐々木を一人で?」
「本人が決めたんだ。理由は聞いていないけど、まぁ、この場所にいたら辛いことを思い出すだろうしね」と梅原さんも僕と同じように影を落とす。被災地では多くの人が自然と暗い表情を創ってしまうみたいだ。そのメカニズムを直に体感して、どうしようもない無力感に支配されてしまいそうだ。どうして佐々木は今まで自分の過去を隠していたのか、今ならその理由が痛いほど分かる。もし、僕が佐々木と同じ状況に陥ったら、今の佐々木みたいに強く生きられるだろうか? 想像しただけで目の前が暗くなってしまう。
「それでは別館B棟にお向かいください」と事務員の声が僅かに聞こえた。
別館に繋がる通路を見ると『被災者安置所』と手書きされた紙が貼られている。文字通り震災で亡くなり未だに身元が不明のまま安置されている場所だ。いつも以上にぎこちない足取りでこちらに向かい帰って来る。その時の佐々木の姿がいつも以上に小さく映り、僕は急激に心が締め付けられそうになる。今すぐにでも佐々木を抱き寄せて何か気の利いた言葉を掛けたいのだが、躊躇した足が一歩も動けないでいる。僕にはちゃんとした両足が付いているのに、佐々木の義足よりも頼りない。
そんな失望する僕を察したのか、梅原さんが「それじゃあ、行こうか」と控えめな声を掛けると佐々木は小さく頷き、二人は揃って重い足取りで別館B棟へと繋がる廊下を歩き始める。
この先、他人である僕が同行してもいいのだろうか?
そんな躊躇をしている僕に気付いた佐々木は何も言わずに戻って来ると、迷子になった子供を導くように僕の手をしっかりと握り締めて再び歩き出す。佐々木の手は冷たく少し震えていた。そうだ。今、最も心細いのは佐々木本人なんだ。僕は何の為に此処まで来たんだ。何があっても佐々木を支える為に来たんだろ。
冷えきった佐々木の手を温めるように僕も強く握り返す。その時に、佐々木は何も言わなかったが少しだけ口元を緩めた気がした。それだけで、きょう一緒に来た甲斐がある気がして嬉しくなった。しかしこの先に待ち構えている最難関の恐怖を前にして、佐々木の表情は再び強張る。
未だに僕は佐々木の詳しい事情を知らないが、もう覚悟を決めた佐々木を止めることは出来ない。お互いの手が解けないように強く握り続けながら、僕らは別館B棟へと向かった――
「この度は、お悔やみ申し上げます」
別館B棟に到着すると黒いスーツ姿の女性職員が深く頭を下げて迎えてくれた。僕らも同じように頭を下げると、強い重力を纏った沈黙が辺りの色を全て奪っていた。
そんな沈黙に慣れた様子の女性職員は独自の編集点を持っているようで「それではご案内いたします」と右手を挙げてロビーのなかへと招く。その瞬間、あんなにも強く結ばれていた僕の右手から佐々木の左手が呆気なく解けた。
「ちょっと行って来るわ」
この先は親族だけで向かうという佐々木の強い意志が伝わった。
「うん」
僕はここで立ち止まり、歩き出す佐々木と梅原さんの後ろ姿を見送った。ロビーの奥は大きな広間になっているようだが、入口は白い布で遮られていた。どれほどの遺体が今も安置されているのかは分からないが、今も無念のなかで散った魂が鎮まることなく彷徨っているように感じた。そんな姿を具体的に想像した瞬間、酷い孤独と恐怖に苛まれて何故か、佐々木の曲が頭のなかを過る。
それでも生きているのはあなたの愛が今も生きていることを明日の自分に証明するため
それが重荷になっても 今はまだ傍にいさせてあげるから
納得するまで彷徨うがいいわ
あぁ、そういう意味だったのか。
『三月、六月、一一月、涙』あの歌詞は震災のことを歌っていたのだろう。そうなると、その曲を捧げた相手は亡くなった家族に対してなのか。佐々木がどうしてあれほどの歌詞や音楽が作れるのかと疑問に思っていた。『単純に才能がある』だけで済ませられる部分もあったが、それだけではなかった。僕の想像が及ばないほどの壮絶な過去を経験した佐々木だからこそ生み出せる世界観なのだ。それなのに何の事情も知らない僕は単純に嫉妬して、無責任に羨ましがった。
今まで何不自由なく過ごしてきた僕は大切で尊い平和を平和と認識できず、ただ平穏だと嘆いて暮らしてきた。佐々木のような本当の不幸を持ち合わせていないことが今の僕にとって不幸なのかもしれない。だとすれば、人生とはどこまでも残酷で滑稽なまでに皮肉な舞台だ。おまけに、質の悪いことにこの怒りの矛先を何処にも向けられない。あえて言えば、自分自身にしか怒りを向けられない。
こんなちっぽけな男が佐々木と一緒に居ていいのだろうか? 我ながら全く自信が持てない。
ロビーの奥から白い布が揺れると佐々木と梅原さんが俯きながら出てきた。その表情に悲壮感以外の感情は見出せなかった。こちらに歩いて来るに連れて、僕の存在を思い出したのか佐々木は必死にいつもの表情を取り戻そうとしていた。
「確認したけど母さんとは思えなかったわ」と佐々木は笑って見せたが、その乾いた笑みに温もりはなかった。
『お母さんの遺体が見つかった』それが今回の旅の答え。
確かに、気軽に他人に言える内容ではない。そこで改めて、僕はとんでもない旅に同行したのだと実感し始める。
空元気を見せる佐々木の横に立つ梅原さんは何も言わずに、目を真っ赤にして涙を堪えていた。梅原さんからすれば実の妹か姉にあたるのか? 或いは、父母と逆の家系に当たるのかもしれない。そんな基本的な関係性すら把握していない僕は、間違いなくこの場にいるにしては情報量が不足している。それでも確実に言えることがある。それは『それでも僕は佐々木の傍にいたい』と思っていることだ。
職員の方曰く母親と思われる遺体は随分と腐敗が進み、身体の一部は失われていた為、一見すると誰か分からない程に損傷が激しかったらしい。しかし、歯形と血液の解析結果から佐々木の母親だと断定された。認めたくない気持ちも大いにあるのだろうが、科学的証拠を突き出されてしまっては、素人の佐々木が否定しても判定は覆らない。そんな佐々木に対して僕は何も言えずにただ曖昧に頷く事しかできなかった。
その後の手続きは梅原さんが済ませることになったが、特に予定のない僕と佐々木は梅原さんと一緒にしばらく総合病院の待合室に居続けることにした。土曜日の午後ということもあってか、様々な用事で訪れる人々の往来が止まなかった。多くが震災関連なのだろうか、ここを訪れる人は誰も無口で表情を忘れた人形のように影を落として歩いていた。そんな人たちの流れを僕は茶色い革の草臥れた長椅子に座り、見るでもなく眺めていた。佐々木は心の整理を付けようとしているのか、或いは疲労がピークに達したのか、ずっと目を閉じていた。梅原さんも何も言わないまま、ただ壁に掛かっている大きな時計を眺めながら時間を潰していた。
受付から佐々木の名前が呼ばれるまで随分と時間が掛かり、手続きが終わるころには午後四時を過ぎていた。明日の午前中までに遺体は火葬され、遺骨はそのまま持ち帰れることになった。これで今日のうちにできることはすべて終わった。
気が付くと待合室には僕ら以外に誰もいなくなっていた。
「これからどうするんだい?」と少し心配そうな顔で梅原さんが尋ねてきた。
「特に何も決めてませんけど」と佐々木は曖昧に答える。
もう予定はないようだ。遅くても明日中には岡山に帰らなければ、月曜日の学校に間に合わない。まぁ、別に休めばいいのだが。そんなことを頭の中で考えていると、静寂を破るように「でも、そうですね。ちょっと海に行こうと思います」と佐々木が何か思い立ったように窓を眺める。
――海?
津波で多くの被害を出した張本人。何より佐々木の親族を奪った犯人みたいな存在。そんな恐怖の対象であるはずの海に、どうして佐々木は行くと言ったのだろうか?
そんな大いなる疑問符を浮かべていると「そうか。それじゃあ、私は帰るよ。大塚君、本当に来てくれてありがとうね。優子、落ち着いたらまた連絡するよ」と佐々木の『海に行く』という発言については何も触れず梅原さんは軽く会釈して、ゆっくりと待合室を後にした。
僕も慌てて会釈して、去って行く梅原さんの後ろ姿を佐々木と一緒に目で追った。
先ほどまで佐々木が見ていた窓を見ると、空を覆っていた雨雲はすっかりとなくなり、青空には薄っすらと赤みが掛かっていた。もうすぐ夕暮れになる支度を始めている。
「それじゃあ、私たちも行きましょうか」と佐々木が立ち上がるが、その表情はいまだに疲労と悲しみが入り乱れ、やつれた笑みを浮かべていた。
いまだに海に行く意義について疑問を抱いているが、その真意を聞けない僕は黙って佐々木の後を追うように歩き出す。
僕らを見送った待合室にはとうとう誰もいなくなり、本日の役割を終えたようだ。
病院の正面玄関に出ると僕たちが利用していたタクシーがいまだに待機していた。料金は払ったはずなのに、ずっといたようだ。再び同じタクシーを利用するのは妙に気まずく感じたが、佐々木は構う様子も見せず既に開いていた後部ドアから乗り込む。それに習って僕も後部座席に乗り込むが、やはり運転手は先ほどとまったく同じ中年男性だった。
「海まで」と佐々木が告げると、相変わらず運転手は何も言わずに浅く頷くが、ちょっとだけ口元が緩んでいるように見えた。
倒壊した街並みも最初に見た衝撃も少し慣れ始めていた。これだけ倒壊が激しいと逆に現実味に欠けてわざとらしくすら思える。それでも悲惨な光景に違いはない。震災前のこの地に住む人々の平穏な営みを想像すると長い溜息では済まされないほど心が折れてしまいそうだ。
タクシーは二〇分ほど僕らを揺らしたところで停車して後部ドアが開く。徐にタクシーから降りると、そこは浜辺とは程遠い巨大な要塞のような壁が建設されている途中の工事現場だった。
「これは?」と僕が首を傾げる。
「防波堤ね。まだ作りかけみたいだけど」と佐々木は当たり前のように答えた。
もう二度と津波を街に向かわせないように。
今まで以上に高く頑丈に。
そんな人々の強い願いを体現するような防波堤だ。
まだ白い土嚢を盛っている段階で、これからコンクリートで形を整えようと様々な工事車両が置かれていたが、本日の工事は終ったらしく、周囲に作業者らしき人の姿は見られなかった。
そんな静まり返った作業現場を見た佐々木は「行きましょう」と僕の手を握って歩き出す。まだ作りかけの防波堤は階段の代わりに土で盛っただけの坂になっている。はじめは佐々木が僕を引っ張るように歩いていたが、次第に僕が佐々木を支えるようになり、最終的には僕が佐々木の右足替わりになるように肩を貸して坂を昇って行く。そうしているうち防波堤の頂上に到着した。
そこから見えた景色は怯えた空が雲を切り裂き、赤い夕陽が海に呑み込まれている絶景が一望できた。
その偉大さに「綺麗ね」と佐々木は思わず声を漏らした。
確かに綺麗だ。しかし、今の僕は綺麗な絶景よりも真下で銀色に輝く波飛沫に目が行った。
瀬戸内芸術祭で見た時の海とは比べ物にならないほどの強い波飛沫の銃声は、まるで津波に攫われた犠牲者の叫び声のようだった。多くの無念と後悔が『まだ死にたくない』と僕に強く訴えくる。
今まで震災を他人事のように捉えていた僕の怠惰に対して怒っているに違いない。そんな罪人の僕に海より深い罪悪感を植え付けようとしているのだ。そんな怨念に対して臆病者の僕は今も握り続ける佐々木の手から感じる温もりだけを頼りに堪えるしかなかった。
寄せては返す波の音。
永遠と繰り返す波の音。
しばらく黙って波の会話を聞いているうちに、佐々木の温もりと太陽の温もりが徐々に僕の心を抱きしめてくれている気がした。
そっと佐々木の横顔を覗くと、夕陽に染まる佐々木の瞳から一筋の涙が頬を伝い、生命の母である海に戻ろうとしていた。
変わり果てた母親と対面した直後でも涙を堪えていたのに、偉大で壮大な海の前では堪えれなかったようだ。今になって家族の思い出だとか、様々な感情が蘇ってきたのかもしれない。
計り知れない悲しみを前にした佐々木に僕は黙って手を強く握り続ける。すると、佐々木は沈む夕日を睨みながら呟くように言葉を発する。
「どうせ、この世界は生きているだけのまやかしに過ぎない。私の魂は二年前の津波に攫われた。それ以降の私という存在は抜け殻だけの偽りにすぎないと思ってた」
遠くで朧気に揺れる水平線は地球と宇宙を急いで繋ぎ止めようと縫い合わせているように映った。
「だけど、自分で歌を作りはじめてから抜け殻だった存在に意味が生まれはじめた。だけど、私が存在しているということは地球や時間を傷付けていることになる。そして、その傷が私の存在を責め続ける。亡くなった母さんが私を責め続けるの」
流れ続ける涙はそのままに佐々木は自分を責め続け、握り続ける佐々木の手が激しく震える。佐々木が発した言葉について僕なりに考察してみる。
仮に、この世界が生きているだけの場所だとしたら、僕たちが過ごしている時間には何の意味があるのだろうか。佐々木の言葉が真実ならば、僕の存在もまた世界の空間や時間を傷付けている災いそのものだ。それを煩わしく思った神様が津波を起こして多くの人々の命だけでなく佐々木のように魂や大切な思い出までも奪い去る。そんな残酷な光景を神様は雲の上から満足げな表情で頷きながら眺めている。仮にそうだとしたら、若干一七歳の少女の人生にしては壮絶過ぎないか? そんな佐々木に比べて僕はどれだけ平和な人生を過ごしてきたのだろうか? 不公平にも程がある。
そんな抗えない運命に対して、僕のなかで芽生えた負の感情が怒りとなって泉のように沸き上がると最後にはとうとう耐え切れなくなった。
「バカヤローーー!」
煮えたぎったやり場のない怒りが沸点に達した瞬間、僕は無意識に海へ向かって叫んでいた。
そんな僕の大声に驚いて目を丸くした佐々木だったが「青春しているみたいね」と笑みを浮かべた。そんな佐々木の笑みを見て僕も幾分かの怒りは治まったが、それでも不条理な宇宙の真理には到底納得などできなかった。
生命の起源である海よ。あの日、なぜ多くの人々を呑み込んでしまったのか。その答えが運命だとするならば、僕はそんな運命を許さない。決して許さない。
そんな僕のやり場のない感情を察した佐々木は学校に居る時のような優しい表情で尋ねてきた。
「どうして付いて来てくれたの?」
「なんか、変な胸騒ぎがしたから。迷惑だった?」
「多分、一人で来てたら正気でいられなかった。ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、今までの怒りが霧のように浄化されてしまった。人間とは何とも単純な生物なのか。
その後、佐々木は今までの人生を振り返るように色々な話を聞かせてくれた。
「あの日、父はいつも通りコンビナートで働いていた。母は私より六つ下の妹を迎えに海から近い幼稚園に向かっていた」
――僕はその日、その瞬間、何をしていただろうか? 必死で思い出そうとするが何も思い出せない位にあり触れた日常を過ごしていたのだろう。
その後、佐々木本人は学校から高台に避難する際、倒壊してきたビルの大きな破片に足を挟まれ、その時に右足を失ったこと。その日のうちに家族全員が行方不明になっている事を知らされた。
「本当に自殺しよう思ったわ」と笑みを浮かべながら話す。
「でもね、半壊した家の中に父のギターが奇跡的に無事だった。それを見た瞬間に不思議と“私はこの先、このギターを弾くことになるんだ”って思ったの。何も根拠もないけど、確信に近い予感が過った。それで死ぬことは思い留まったわ」
佐々木にとっての音楽という存在は文字通り命の恩人という訳だったのか。敵わないわけだ。
その後、人生をリセットする目的で新天地である岡山に来た……
佐々木の壮絶な過去を知る度に僕は自分が過ごしてきた日常の有難さを噛みしめていた。
「実は私、大塚より一つ年上なのよ。震災と岡山への引越しでバタバタして一年間留年しちゃった」
「それじゃあ、佐々木先輩だ」
「やめてよ、気持ち悪い。今まで通りでいいわ」
照れながら今までの生い立ちを話してくれた佐々木の存在が尊く思えて、また抱きしめたくなった。そんな衝動を抑えて、僕は必死で平然を装う事に努める。同時に藤田先輩と同じ歳になる訳だと悟った。藤田先輩はどこまで佐々木の過去を知っていたのだろうと疑問を過らせたが、少なくともタメ口だった事には納得できた。
すっかりと陽が暮れて夜の帳が捲れながら一番星が輝き始める。僕らは来た道を引き返すように防波堤から降りると待たせていたタクシーに乗り込み仙台駅前まで向かった。
仙台駅の西口前のタクシー乗り場で降りると、来たときは余裕が無かったからあまり気付かなかったが、まだ震災の影響で抉れた路面やら斜めになった電柱がそのまま街に馴染んでいた。電力が足りていないのか、全体的に照明は暗く街全体が未だに疲弊している印象だ。
「まずはこっちね」と佐々木は一旦駅内のロッカーに向かい、自分たちの荷物を回収した。そして再び西口前に戻ると、今度はそのまま南方面にある白いビジネスホテルに向かった。
「今夜はここに泊まりましょう」と佐々木はホテルの全貌を確認するように建物を見上げる。街と同様に節電しているのか、最低限の灯りを照らし、辛うじて営業していることを知らせていた。
「うん」と僕は佐々木の提案に曖昧に頷きながらも、内心では少し緊張していた。
白いスモークが掛かったガラス扉を潜りホテルに入ると、フロントは常に無人のようで、受付には各部屋の内装写真とパネルだけが待ち構えていた。
二人並んで様々な部屋を眺めるがシングルの部屋しか空いていなかった。
「同室でいい?」と佐々木は顔を背けながら尋ねてきた。
「うん」と僕も小さな緊張感を抑えながら答えると、佐々木は黙ってシングルの部屋を選択した。つまり、同じベッドで寝ることになる。その事実を理解した僕の鼓動が次第に高まり始める。
エレベーターで四階に登り、借りたシングルの部屋に入ると、白を基調した清潔感溢れる空間が出迎えてくれた。考えてみれば、ビジネスホテルに泊まるのは初めてだ。勝手が分からない。
「先に風呂に入るわね」と慣れた様子の佐々木は義足を外し、片足で壁伝いに歩いてユニットバスへと向かう。
ベッドの下に取り残された佐々木の義足を徐に拾ってみた。想像していた以上に軽かった。本物の佐々木の足は今頃どこをほっつき歩いているのだろうか。或いは離れ離れになってしまった主を探し彷徨っているのだろうか。そんなことを漠然と想像していると眠気がやってきた。
今日は朝早くに起きた。更に長距離移動があり、様々な感情に揺さぶられたせいで心身ともに疲弊していた。それはきっと佐々木も同じだろう。いや、佐々木の方が精神的にも疲弊しているに違いない。
それから一〇分程が経過した。
「次、どうぞ」と言いながら、佐々木が白いバスローブ姿で部屋に戻って来た。そのバスローブの下は裸なのだろうか?
期待と緊張が渦巻く中で「うん」と平然を装って僕は早々にユニットバスへと向かう。
バスの扉を開けると先ほどまで佐々木が居た痕跡を感じさせる湯気とシャンプーの匂いが周囲を包んでいた。洗面台の横にある棚には先程まで佐々木が着ていた服と黒い下着が丁寧に折り畳んで置かれていた。やはりバスローブの下は何も着ていないようだ。そう思うだけで心臓が五月蠅くなってきた。
浴槽に向かうがバスタブにお湯はなかった。どうやらシャワーだけで済ませたらしい。確かに、お湯が入るまでの時間が惜しいほどに疲れている。僕も佐々木と同様にシャワーだけで風呂を済ませようとバスタブに常備されていたシャンプーを使って髪と身体を洗い流した。これで今日だけは佐々木と同じ髪の匂いがするだろう。
風呂から上がり部屋に戻ると、佐々木はバスローブ姿のままベッドに横たわりスマホを触っていた。どう声を掛ければ良いものかと躊躇していると「もう寝る?」と僕の存在に気付いた佐々木が尋ねてきた。部屋の時計を見ると午後九時を廻っていた。寝るには些か早い気もするが、多忙だった身体の節々から悲鳴が上がっている。
「佐々木はどうする?」
「言わせないでよ」佐々木はこちらを睨みながら唇を尖らせた。
…………
客観的に今の状況を把握すると、年頃の男女が同じ部屋に泊まっている。そんな二人が夜に始める行為といえば……僕も子供じゃない。コウノトリが赤ちゃんを運んでくる訳では無いことくらい知っている。今日だけで何度も佐々木を抱きしめたい衝動に駆られた。この場面で佐々木を拒む理由などないはずなのに、どうしても藤田先輩の顔が過ってします。それに今日は佐々木にとって辛い一日だった。そんな傷心したときに漬け込んでいる気がして、僕の中の審判員が首を横に振っている。
「僕は佐々木のことを尊敬しているし、心から好きだと断言できる。だから佐々木を独占したいと思う。でも、今夜はそっと抱きしめながら寝たい」と運動会の開会式で行われる選手宣誓よりも公正な気持ちで表明した。
しかし、我ながら自分の中で何も整理しないまま話し出したせいで、何を言いたいのか理解できない。自分の高まる鼓動が聞こえる程に脈が激しく打ち付けている。
「分かったわ。それじゃあ、寝ましょう」と佐々木はスマホを置くと再び僕に背を向けて眠る体勢を取った。
少し躊躇ったが、僕も佐々木の居るベッドに入って部屋の照明を消した。
本当に我ながら何を言ってしまったのだろう。そんな後悔を真っ暗な宙を眺めながら思い浮かべていると「早く抱いて」と佐々木が小声で呟いた。
いまだに背を向けたまま横たわる佐々木。少し躊躇いながらも、僕から言い出したことだ、と覚悟を決めて佐々木の頭と首の隙間に左腕を潜らせて腕枕状態にする。そして余った右腕で佐々木の肩を包み込むような形で抱きしめた。柔らかい佐々木の身体と至近距離で漂う佐々木の匂いを感じながら目を閉じた。今日は最初から最後まで夢のような時間を過ごした。気が緩んで眠たくなってきたせいか、或いは佐々木の匂いに興奮したのか徐々に僕のペニスが大きくなり佐々木の背中に当たりそうになる。
少し腰を引いて眠ろう。明日はきっと腰痛になっているだろう。それでも顔に佐々木の髪が当たる程の距離に居ることに、この世界の全ての安らぎと幸福を与えられた気がした。同じシャンプーを使ったはずなのに、僕と少し違う佐々木の香りがする。そんなことを思いながら目を閉じたからか、夢の中でも佐々木が出てきた気がした。目覚めればすぐに忘れるかもしれないけど、今はそれでいい。目を覚ませば夢よりも素敵な現実が待っているはずだから――
――「そろそろ私の骨を回収したほうが良いのではないでしょうか?」
僕が眠る横で誰かの囁く女の子の声が聞こえた。
「そうなんですが、彼にはもう少し世界の真理を見せてあげたいと思っておりまして」と男の声がした。
女の子の声に覚えは無いが、男の方は聞き覚えがある。間違いない。こんな晴れやかな眠りを邪魔する存在は一人しか居ない。東京ダビンチだ。
『おい、今は邪魔しないでくれ。僕は人生で一番幸せな夜を堪能している最中なんだ。他の夜にしてくれないか?』と文句を言いたかったが、身体は金縛りに遭い声を発せない。そんな僕の状況に構う事無く会話は続く。
「しかし、彼はただの人間ですよね? 真理に触れ過ぎると取り返しのつかない事になりますよ」と女の子は心配そうに忠告する。
「まぁ、そうなったら、それまでです。また代わりの人間を探しますから、どうか心配なさらず」といつもの余裕を滲ませた東京ダビンチの物言いが癇に障る。
「いやいや、私の骨も有限です。ある程度の効果が発動すると後は自然に消滅しますから、その辺は気を付けてくださいね」
「承知しております。それよりも極楽鳥さんもお疲れでしょう。今宵は久々に粉宇宙でも召し上がり、英気を養われては如何でしょうか?」
「あら、粉宇宙が手に入ったの?」
「えぇ、極上の太陽系産の粉宇宙ですよ」
「まぁ、今時珍しいわね。それじゃあ。お言葉に甘えて頂こうかしら」と談笑する二人の声が次第に遠ざかっていく。
僕だけが損したような複雑な感情で再び眠りに付いた――
――目覚めると既に佐々木は服に着替え、外出の準備を済ませていた。どうして佐々木が居るのだろうと疑問が過るほどに、ここが仙台であることを忘れるくらい熟睡していたようだ。
「おはよう」と朝一番に言える相手が佐々木である幸せを噛みしめながらも、急いで支度を済ませた。
梅原さんと話し合った末、火葬された母親の遺骨が入った骨壺は仙台にある墓に納めることとなった。その手続きも梅原さんがやってくれることとなり、今回の旅の目的はすべて達成された。
しかし、このまま何も持たずに佐々木を帰すのは不憫だと思ったのか梅原さんは「昨夜、必死で探したんだけど、この一枚しか見つからなくてね」と申し訳なそうに写真を差し出した。
その写真には目元が佐々木に似て優しい表情を浮かべる母親と、まったく佐々木に似ていない無愛想な表情の父親。その真ん中で満面の笑みで赤子の妹を抱く幼い佐々木が映っていた。
それを見て佐々木よりも先に僕が泣いてしまった。そんな僕を見て佐々木も、もらい泣きしながら「なんで、あなたが泣くのよ!」と笑った。
正午過ぎ、仙台駅にある長い階段の前で佐々木の方から「肩を貸して」と言ってきた。その台詞に僕という存在が初めて佐々木に認められた気がして嬉しくなった。
「うん」
僕は佐々木の右側に周り込んで肩を組み、佐々木の歩く速さに合わせて歩き出す。昨夜ほど佐々木の匂いは感じられなかったが、やはり藤田先輩の顔が思い浮かんだ。
藤田先輩は佐々木の過去をどこまで知っていたのだろうか? 僕は藤田先輩の連絡先を知らないから本人に尋ねることもできない。今回の旅のことを知ったら、藤田先輩はどんな気分になるだろう? それ以前に、藤田先輩は元気にしているのだろうか? ちょっと会っていないだけなのに、もう随分と会っていない気がする。また佐々木の家で三人揃って、曲を作りながら他愛もない世間話をする至福の時間は訪れるのだろうか?
新幹線のなかでは、必死で失った時間を取り戻すようにお互いに好きな音楽の話をした。話題は尽きることなく、次回作の構想や将来の展望など今まで以上に深い内容まで話し合った。僕は僕で客観的な指摘や意見を述べる。気が付くともう午後三時半が過ぎ、定刻通り新幹線は岡山駅に到着した。
「着くの早いわね!」と佐々木が驚く。それ位、僕等の会話は弾んでいたようだ。
改札を潜り、岡山駅の東口まで降りたところで「本当にありがとうね」と佐々木は寂しそうに微笑む。そんな佐々木の顔を見ていると後ろ髪を引かれる気持ちになってしまう。
「まだ時間も早いし、何か食べて帰ろうか?」と僕は適当な口実を付けて、少しでも長く佐々木といる時間を延ばした。佐々木も僕と同じ気持ちだったらしく、寂しそうな表情が一瞬で晴れた。
駅の近くにあるショッピングモールで間食しつつ、騒がしい空間を佐々木に肩を貸しながら歩いて回った。はじめは躊躇していた佐々木だったが、次第に慣れたのか「大塚、次は三階に行きたい」と強引に僕の身体を反転させて自在に使いこなすようになっていた。
周囲には佐々木の義足に気付いた人が疑念を抱く視線を向ける場面が何度かあった。佐々木に出会う前の僕ならば、義足の人を見かけても他人事のように見て見ぬふりをして流していただろう。しかし、たまたま好きになった人が義足だっただけで、立場はあっさりと逆転してしまう。そして関係者になって初めて障害者について真剣に向き合うようになる。その感覚が今の僕には痛いほどよく理解できる。だから、佐々木の義足について、誰かが陰口を叩こうとも、蔑もうとも、同情しようとも、今の僕にはどうでもいいことだと言い切れる。そんな他人に怒りや不満をぶつけるくらいならば、その労力は佐々木を支える為に使おう。
そうやって割り切れただけでも少しは成長しているのだろう。と自分に自尊心を少し与えてみた。
楽しい時間はすぐに立ち去り、気付くと空は暗くなっていた。
「それじゃあ、そろそろ帰りましょうか」と再び佐々木の表情が曇るが、流石に僕もそろそろ帰らないと家族が心配する。しかし、このまま佐々木を独りにするのも心配だ。おそらく、僕の優柔不断を知っている佐々木は、僕がこうなることをあらかじめ予測して、自分の事情を僕に教えなかったのだろう。
「あなたには家族がいるんだから、大切にしなさいよ」
そう言って、僕の背中を軽く叩いた佐々木はいつものぎこちない歩き方でひとり孤独な家へと帰って行った。僕が自立していれば、迷う事なく佐々木を後ろから抱きしめて、佐々木と一緒に帰っただろうに。まだ学生である自分を呪う。
家に帰った途端に安堵したのか、今まで溜まっていた疲労が一気に襲い掛かってきた。今は何も考えたくない。
「幸太、お帰り。お風呂にする?」
「うん」
このまま眠りたかったが、昨夜はシャワーだけで済ませていたので湯船に浸かりたかった。母親の存在に感謝する間もなく風呂に入る事にした。
一日だけ自分家の風呂に入らなかっただけで随分と久々に感じられた。ゆっくりと湯に浸かっていると意識が朦朧としてきて、危うくそのまま眠ってしまいそうだった。
怠惰に沈みそうな身体を無理に動かして髪を洗う。そして三分ほどで風呂を出ると自分の部屋まで駆け込み、ベッドの中に潜り込んだ。何とか間に合ったと一息ついたと同時に意識が飛んだ。
――一寸先も見えない暗闇を僕は怯えながら宛てもなく歩き続けている。
しばらくして、僅かな白い光を見つけた僕は急いで近づく。眩しくて直視できないが、その光のなかには確かに人影が映っている。何とか顔を確認しようと目を凝らしてみると、この輝きに目が徐々に慣れてきたのか、優しい眼差しをした年配の女性が見えてきた。その微笑みにどこか懐かしさを感じる。
そんな女性は僕の存在に気付くと軽く会釈をして「よろしくね」とだけ言い残して光のなかへと消えて行った。
そんな姿を見て僕は訳もなく涙を流した。
暗闇だと思っていた場所は、どうやら宇宙の片隅だったようだ。目が慣れて周囲を見渡すと太陽側から地球を見る形で僕は無重力の海を漂っていた。おかげで流した涙も一緒に漂っている。
こんな時に限って東京ダビンチも極楽鳥も姿を見せてくれない。本当に薄情な奴らだ、と怒りながらも、流れる涙を必死で掻き分けながらクロールの要領で地球に向かって泳ぎ始める。
そのまま何光年経っただろうか。あれから一ミリも進んでいない気がする。次第に泳ぎ疲れた僕はその場で途方に暮れて、今も遠くで妖しく輝く地球を見上げる。宇宙から見える地球は本当に綺麗だと思う。宇宙人が居るなら侵略したくなる気持ちも分かる。そんな現実逃避していると、無数の白い靄の塊が一列に並んで何処かに向かっている。何処に向かっているのだろうか? 僕も列の最後尾に並ぼうと近づくと「あなたはこちらじゃないでしょ」と誰かに注意された。誰の声だろう? 聞き覚えは無いが、懐かしい声だった。
「早く戻りなさい。あなたが居るべき世界に」――
目覚めるといつもの月曜日の朝だった。晴れやかで穏やかな静かな朝なのに、僕はいまだに涙を流していた。あの女性は誰だったのだろうか?
何処となく目元が佐々木に似ている気がした。
階段を降りる度にビートルズが徐々に聴こえてきた。今朝に限ってレット・イット・ビーだ。
「おはよう、幸太」
いつもの母の後ろ姿。いつもと変わりないはずなのに、切なく思えた。
僕はこんなにも平和な場所で生命の危機のような不安を一切抱かずに自分の将来だけ心配しているような自己中心的な生活をしていたのだと痛感させれて落胆した。それが何より悔しかった。悔し過ぎてまた涙が出てきた。
「どうしたの!?」
僕の涙を見て驚く母は慌てて朝食を作る手を止めて僕に近づく。
そうだ。弱い僕にはまだ心配して支えてくれる両親がいる。そんな幸せに気付く事もなく今まで過ごしていた。佐々木の両親はもうこの世界に居ないのに。
それから僕は教会で懺悔する迷える仔羊のように昨日までの旅の詳細を母に洗い浚い話した。主に佐々木の境遇について、今の恵まれた僕と如何に異なる人生を送ってきたのかを詳細に話した。震災に遭ったこと、右足を失ったこと、親を失ったこと、今は一人で暮らしていること。
そんな佐々木の話を聞いていた母も、次第に僕と同じように涙を流してくれた。いつまでも少女のような純粋な母が、今は誇らしく思えると同時に羨ましく思えた。
「今度、その佐々木さんに会わせて」
そう言いながら、母は僕を強く抱きしめ、僕が泣き止むまで頭を撫でてくれた。いつ以来だろうか。こんなにも近くで母の温もりと懐かしい匂いに触れたのは。
いつの間にか、台所にはアクロス・ジ・ユニバースが爽やかに流れていた。そろそろ、学校に行く支度をしないと―――
居間を覗くとイーゼルに置かれていた油絵には満開の向日葵が一面に描かれていた。もうすぐ夏がやって来る。僕にも、佐々木にも、藤田先輩にも、誰にも等しく夏はやって来る。それを望もうと望むまいと必ず夏はやって来る。
「うちで洋楽のライブDVDを観ようよ」
学校に着いて開口一番で佐々木に放った言葉。適当な理由を付けて佐々木を自宅に誘おうとしたのだが、佐々木は何かを察したのか「私の家で観ればいいじゃない」と警戒される。まぁ、当たり前だよな。今の今まで放課後は佐々木の家に集まっていたのだ。それが急に自分の家に誘って来たとなれば、僕だって佐々木の立場だったら警戒する。これは正直に話した方が良さそうだ。
「実は、お母さんに佐々木のことを少し話したんだ。そしたら会いたいって言いだしてさ」
僕が観念して事の経緯を正直に話すと、佐々木は少し困惑した表情でしばらく沈黙するが「そういうことなら、行ってもいいかも」と呟くように答えた。難なく許可が得られ、誘っておきながら少し驚いた。そんなことなら最初から素直に話せばよかった。
まぁ、結果オーライか。
そんな経緯を経て土曜日を迎えた。
約束よりも五ほど早く佐々木が家に来た。
「いらっしゃい」
数分前から母は玄関でずっと待機して佐々木の到着をまだかまだかと待ち構えていた。余程、待ち遠しかったのだろう。母らしい。
「お邪魔します」と少し派手目の赤いワンピースを着た佐々木が初めて自分の家に上がる。なんだか不思議な光景だ。
初対面の母に緊張気味に会釈する佐々木だったが、そんな佐々木に構う事なく母は「遠慮しないで早く上がって」と佐々木の腕を取って強引にリビングまで招こうとする。
「ちょっと母さん、佐々木は義足だから強引に引っ張ったらダメだよ」と僕が慌てて静止する。
「あら、そうだったわね。ゴメンなさいね」と慌てながら笑う。どこまでも天真爛漫な人だ。そんな母に最初は面を食らっていた佐々木だったが、いつの間にか楽しそうに笑っていた。
いつもは僕が朝食を採る席に佐々木が座ったものだから、僕はいつも父が座っている椅子に座る。そのせいか、見慣れない角度から見慣れない佐々木が座っている光景が夢のように映った。
「紅茶でいいかしら?」と母が昨夜から準備していた渾身の紅茶を佐々木の前に出す。
「はい」と既に出された紅茶が入った白いカップを手に取った佐々木は温度と味を確かめるように一口だけ口に含んだ。
そんな佐々木の様子を見た母は満足そうに大きく頷き、いつもの椅子に座る。そして何かを思い出すように目を細めながら話しはじめる。
「幸太から話を聞いたときは驚いたわ。実はね、私の祖父も右足を失っていたのよ。戦争でね。それが子どもながらに怖くて、あまり祖父と話せなかった。それが今でも後悔しているの」
僕も知らない事実に少し胸のなかが騒がしくなる。曾祖父は僕が生まれるずっと前に亡くなっている。だからか、曾祖父の話なんて今まで一度も聞いたことがなかったし、気にも留めなかった。
「毎晩、失った右足の先端に消毒液を塗って、その上に何重もの包帯を巻いていたのを今でも思い出すわ。その時の消毒液の臭いが苦手で近づかなかったの。子どもながら残酷な事をしたと思うわ」
毎朝、ビートルズを口ずさむ陽気な母からは想像も付かない幼少期の姿に息子ながら初めて母親の母親ではなかった過去に触れた気がして不思議な感覚に陥った。
「それでも、祖父はずっと優しく笑っていたわ。私が中学の頃に亡くなったけれど、今でも祖父の笑顔しか思い出せない」
そんな曾祖父との過去があったから、母は佐々木に会いたいと言ったのか。
「佐々木さん、義足だと移動が大変でしょう? 祖父も義足になってから遠距離の旅行を避けていたらしいわ」
話を振られた佐々木は一瞬だけ考えるように黙り込むが、すぐに
「そうですね。確かに義足は大変ですが、慣れれば移動自体に然程の苦痛は感じません。だから、お祖父さんは移動が嫌で旅行を避けていたのではないと思います」と答えた。
佐々木の意外な返答に母は目を丸くして「では、何故?」と興味を示す。
「私の主観ですが、おそらく他人の目が気になったのではなでしょうか。或いは、自分が周囲に迷惑をかけるのが嫌だったのではないかと思います。今の時代だとバリアフリー化が浸透して、障害者にも比較的優しい施設が増えました。しかし、お祖父さんの時代だと、そこまで浸透していなかったのではないのかと」
そんな佐々木の意見に母はハッと思い知らされたように目を丸くして驚いた。流石は当事者だ。僕や母の想像も及ばない領域で、僕の知らない曾祖父の気持ちを代弁してくれた。
「言われてみれば、そうかもしれないわね。ありがとう、佐々木さん」と母は目に涙を溜めて嬉しそうに笑った。
それから昼食を取るまでの間、母と佐々木は何かを切欠に意気投合したようで延々と会話を弾ませ続けた。これが女性同士の連帯感なのか、僕は完全に蚊帳の外だった。でも、まぁ、母も佐々木も楽しそうに会話しているので、良しとしよう。
それにしても、最近はよく佐々木といる時間が長くなった気がする。むしろ、会わない時間の方が不自然になったと思えるほどだ。母と佐々木の声が交差する台所が大切に思えた。こんな日々がずっと続けばいいのに。いや、他力本願では駄目だな。ならば、こんな日々を続かせるために何をすればいいのだろうか? それも青春からの宿題か。どれくらい藻掻けば大人になれるのだろうか? 青春ってヤツは本当に残酷だな。
宿題と言えば、いつの日だったか佐々木から作詞用のデモ曲を渡されていた。一体、今の僕ならばどんな歌詞が書けるのだろうか? 心の神に問いかけても、返ってくるのは佐々木の事ばかりだった。特に仙台で佐々木と見た夕暮れの海。あの時に堪え切れずに叫んだ感情。忘れないように歌詞として残しておきたい。
ただ、この気持ちを言語化しようとした途端に慌てて言葉たちが僕の前から逃げ出していく。だから、これからの日々はもっと丁寧に生きて、言葉たちが自然とこちら側に近づいて来るようにしなければならないようだ。おそらく、そうすることでしか、本物の歌詞は生まれないのだろう。
窓を開けると大きなシロサギが電柱の先端に立ち、詰まらなそうな眼で「本当の歌詞ってなんだよ?」と冷笑していた。

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