翌日。いつもの時間に教室に入るが佐々木の姿はなかった。何とか佐々木と会話を弾ませようと最新の洋楽情報やギターに関する豆知識を準備していたのに。昨日の盗み聞きを未だに怒っているのだろうか?
そんな不安を募らせながら自分の席に着き、黒板の上にある壁時計を見るでもなく眺める… それから二十分が経過し、あと2分で朝礼が始まる。今日は欠席か? と心配をした時だった。チャイムが鳴ると同時に佐々木が教室に入ってきた。そしていつものぎこちない歩き方で自分の席に着く。
戸惑いながらも「おはよう」と声を掛けると「おはよう」と素っ気ない挨拶だけ交わす佐々木。「あの…」と僕が声を掛けようとしたタイミングで担任が教室に入って来たものだから、まともな会話も出来ずに授業が始まってしまった。
一時間目が終わり「あの…」と再び声を掛けようとしたが、佐々木はすぐにイヤホンを取り出して音楽を聴きながら、メガネを外すとそのまま机の上に頭を乗せて目を閉じてしまった。
そんな調子で残りの休み時間も同様のやり取りが昼休みまで続いてしまう。
流石に昼休みになれば、一言でも話せるかと薄っすらとした希望を抱いてみたが、佐々木は昼休みのチャイムが鳴ると同時に、サンドイッチとイチゴ味のポッキーが入ったコンビニのレジ袋を持って教室を出て行ってしまう。後を追いたかったが、昨日の盗み聞きの件もあって、更に佐々木との関係が悪化してしまう可能性を考慮すると石化したみたいに足が全く動かなくなっていた。
仕方なく、僕はいつも通り食堂に向かい昼食を摂る事にした。
その後も佐々木と会話する事なく遂には終礼まで辿り着いた。ここがラストチャンスだ、と終礼が終わる瞬間に声を掛けようとしたが、佐々木は既に帰宅準備を済ませていたようで「さよなら」と言葉を添えて、そのぎこちない足取りで教室を出ようとする。そんな佐々木の後ろ姿を眺めながら、僕もようやく勇気を振り絞り「この後さぁ」と声をかけたが、「忙しいから、また今度ね」とあしらわれて、ただただ佐々木の姿が消えるまで見守る事しか出来ずに一日が終わってしまい、いつもより重い足取りで一人帰宅することにした。
やはり意図的に避けられている事は間違いない。ここは謙虚に佐々木の機嫌が直るまで辛抱強く待つしかなさそうだ。溜息を漏らしながら、気を紛らわそうと、ベッドに寝転んでスマホを取り出し藤田先輩の動画を開く。しかし、既に動画は削除されていた。コメント欄には『近いうちに完成版を公開するから待っててね』と書かれていた。再び溜息を漏らしていた。壁のカレンダーを眺め、今日が金曜日だという事実を確認する。最低でも次に佐々木と会えるのは月曜日だ。長い週末になりそうだ、自然と三度目の溜息を漏らしていた。
案の定というべきか、週末は晴天が続いていたはずなのに、僕の心はどんよりとした灰色の曇で覆われていた。だから一歩も外に出る気分も湧かず、自室のベッドに寝転がり好きな洋楽を聴き続けて時間を無駄に殺した。そのおかげで頭の中にはコールドプレイが流れたまま転寝を何度も繰り返す――
一歩手前も見ない程の濃霧の中、僕は裸のまま彷徨い続ける。
この僕は今の僕なのか、今とは異なる僕なのか分からない。
ただ恐怖という概念は存在しない世界らしい。
もちろん希望という概念も消滅しているみたいだ。
しばらく歩いたところで“約束の地”と書かれたプラカードを右肩に掲げた白鳥の顔をしたグラマラスな女性が立っていた。彼女も裸だ。
「ここが約束の地ですか?」と僕が尋ねると白鳥の女はプラカードをその場に置いて両手を左右に揺らしながら小躍りを始める。
仕方がないので、僕も彼女の動作を真似るように踊る。しかし濃霧の影響で彼女の踊りがはっきりと捉えられない。
踊りが合っているのは分からないまま、しばらく踊り続けると、白鳥の女は満足したのか僕の右手を掴んで何かを握らせるように渡した。
それから白鳥の女はその場で大きな白い翼を背中から生やして、空白の空を飛び立った。「さようなら、共犯者さん。また並行世界でお会いしましょう」という謎めいた言葉を残して。
ここは濃霧の中、一瞬で彼女の姿は見当たらなくなった。
御礼のつもりか? それとも、ただの気紛れか。右手を開くと骨を握らされていた。いつも僕が持っている骨よりも、やや長くて細い形状の骨だ――
コールドプレイの音楽と共に意識が徐々に覚醒する。
現実に戻った事を確認する為にスマホの画面を開くと日曜日の23時を表示された。不安になりながら、ゆっくりとポケットに手を突っ込むと骨は僕の知る骨の形状のまま存在し続けていた。何故か安堵している自分に戸惑う。
そんな中途半端な時間帯に目が冴えたものだから、その後の夜はあまり寝付けないまま朝を迎える事になった。
月曜日の朝。今日も快晴で爽やか以外の言葉が当てはまらないくらい完璧な朝だ。自分の睡眠時間を除いては。
1階に降りるとビートルズのブラックバードが流れいた。
しかし台所に入っても、いつもの母の姿が見当たらない。代わりにテーブルの上に置手紙があった。
“散歩に行ってきます”
月曜日の朝から優雅な人だ。と思いながら、置手紙の横に用意されていた焼きたての食パンとバナナを食べて朝食を済ませる。
佐々木に会いたいような、会いたくないような、何とも微妙な先週の終わり方が寝不足と共に不安を助長するように登校時の足取りを重くしていた。
そんな不安定な精神のまま教室に入ったものだから、既に佐々木が席に着いている光景が目に飛び込んだ瞬間、何の覚悟も心の準備もしていなかった僕の鼓動は自然と速まり謎の緊張感に襲われた。歩く足が竦み自分の席に向かうのを躊躇っていた。しかし、ここで変に動揺すると今まで以上に佐々木との関係がぎこちなくなってしまうかもしれない。ここが踏ん張りどころだ。僕は心のなかで深呼吸をして必死で平然を装う事に努めながら歩き始める。
「おはよう、今日は早いんだな」
「やっと来た。ちょっと聴いて欲しいんだけど」
僕の必死に平然を装った挨拶を無視するように、佐々木はいつもより少し楽しそうな笑みを浮かべて白いイヤホンを僕に差し出す。予期せぬ展開に困惑しつつも、佐々木に言われるがままイヤホンを手に取り右耳に装着した。聴いて欲しい?
イヤホンを装着した事を確認した佐々木はスマホを手慣れた様子で操作する。
しばらくして、アコースティックギターの優しい音色と、どこか懐かしいハーモニカの響きが融合した前奏が僕の鼓膜に優しく寄り添ってきた。その瞬間、僕を取り囲んでいた殺風景な教室はいつの間にか異国の田舎町に飛ばされたようで、気付けば膨大な敷地に実った黄金色に輝く麦畑の中に立ち尽くしていた。
夕暮れなのか朱色に染まった空には飛行機雲が西に向かって駆け抜けて、今日も平穏な一日が終える喜びを静かに感謝するように麦たちが爽やかな秋風に吹かれて軽やかに揺れている。
そんなカントリーチックでしっとりとしたテンポに僕は思わず目を閉じて、佐々木が創り上げた世界観に浸る。
水のないプールで泳ぐみたいに ただもがく日々
前に進んでいる保証なんてどこにもない
でも一つだけ確かなことは 今も生きているってこと
慰めは記念写真が残ってなかったこと
不幸だなんて誰かが決めた基準でしかない
私は私でそれなりに過ごしてるから心配しないでね
弥生の空は今にも泣き出しそうな
灰色に覆われて今の私みたいに震えていた
その時の夕陽には出会えなかったけど
私の代わりに泣いてくれたのかな
それでも生きているのは
あなたの愛が今も生きていることを
明日の自分に証明するため
それが重荷になっても 今はまだ傍にいさせてあげるから
納得するまで彷徨うがいいわ
水無月の空は決壊した川のように
躊躇うことなく私の涙を洗い流した
その時に思い出も一緒に流してくれたら
もう少しだけ感謝したかもね
この世界は目を閉じた方がよく見えることばかり
そんなことを言って笑っている奴が
実は笑われていたりするように
霜月の空は白い涙が優しく舞い降りて
傷付いた私の街をすべて隠そうとする
その時だけは楽になるんだけどね
また春が来るのを拒んでしまいそう
優しいアコースティックギターの音色が名残惜しそうに響き止むと、イヤホンの隙間から微かに教室の雑音が聞こえはじめる。そこで自分が目を閉じていることを思い出す。
目を開くと現実の世界に引き戻された。そこで僕がこの作品の世界観にどっぷりと浸っていたことに気付く。それがこの作品に対する僕の評価だ。紛れもなく本物だ。
先週、佐々木が急いで帰宅したのも、朝ギリギリに登校していたのも、この作品を早く完成させるためだったのだろう。そう理解した瞬間、僕の心に覆い被さっていた週末からの灰色をした雨雲の隙間から無数の光の筋が突き刺してきた。
「どうだった?」
不安そうな表情で尋ねる佐々木の問いに、僕は間髪入れず「すごく良くなった!」と何の捻りもない率直な言葉を漏らす。
しかし、その直後に「でも…」と食後のデザートが出て来ないような物足りなさを感じはじめている。この違和感の正体は…… と考えてすぐに気付く。
「間奏がないのか」
そんな僕の台詞に、佐々木は曖昧な笑みを浮かべる。
「流石は大塚ね。無駄に色んな音楽を聴いているだけあるわ」
無駄にという部分に重度な皮肉が垣間見えるが、佐々木の表情は至って真面目だったから余計に質が悪い。
「大塚はどんな間奏が合うと思う? Aメロに集中し過ぎていたからか、間奏のイメージが何も思い浮かばないのよ」
状況の整理が追い付かず戸惑い続ける僕を他所に、佐々木は夏休みに入る前の無邪気な児童のように純粋に目を輝かせながら意見を求めてくる。しかし、僕は聴く専門であり、作り手ではない。そんな何の才能もない素人の僕が絶妙なアドバイスなど授けることもできるはずもない。
ただ先週に聴いたデモ段階の時のボブ・ディランのイメージからは随分と変わった印象だ。普段から洋楽ばかり聴いている自分としては、日本語の歌詞が新鮮に思えて仕方がない。
あまりカッコイイ言葉で嘘を言っても仕方がないのだろう。僕は僕の感じるままの言葉を紡ぐ事に集中しながら話す。
「曲だけじゃなくて、歌詞からイメージを膨らませてみたらどうだろうか?」と言いつつも、この歌詞から佐々木が今まで歩んできた人生の背景があまり見えてこなかった。一体、この歌詞は何を伝えたいのだろうか。
そんな知ったような僕のアドバイスに、佐々木は顎先に手を添えて少し考え何度か頷く。
「なるほどね。大塚のくせに良いこと言うじゃない」
佐々木にとって僕という存在はどう映っているのだろうか。深く考えれば不安しか抱かなくなるだろうから、あまり考えないようにしよう。
「それじゃあ、今日の放課後うちに来て。どうせ暇でしょ?」
僕が暇なことを前提に話を進める佐々木の表情は実に生き生きとしている。恐らく、先週は曲作りで頭がいっぱいになっていたせいで、僕と話す余裕すらなかったのだろう、と勝手に解釈することにした途端に週末から蓄積された疲労がどっと出てきたように全身からダルさが解放されたように滲み出て、全身の力が抜けてきた。
今日はすぐに帰って眠りたかったが、佐々木の家は気になる。それに、この機会を逃したら、今後の佐々木との関係が不安定になりそうで怖いし、一生後悔するだろう。そんな自分を絶対に許さないだろう。
「絶対に行くよ」と固く誓った僕の言葉に、佐々木は「何よ、その力強い返事は」と言いながら控えめに笑った。
その日は何故か黒板よりも窓から空を眺める時間の方が長く、時より黒板の上に掛かる時計を見ては時間の長さに溜息を漏らした。
校庭の隅にそびえ立つポプラの木に止まる白い鳥がこちらを睨みつけているが、今の僕には何も恐れる事はなかった。何故なら、放課後に佐々木の家に行くからだ。そんな支離滅裂な思考回路を巡らせたところで、やはり時間は速く進みはしなかった―――
待ちに待った放課後。
チャイムが鳴り終えると同時に皆が一斉に席を立ち、教室から出て行く。そんな皆の行動を最後まで見守った佐々木は僕以外の誰も教室から居なくなった事を確認してから、そっと立ち上がる。
「それじゃあ、行きましょうか」と僕の左側に寄り添い左肩に手を添える。
その時に浮かべた佐々木の表情を見る勇気が僕には無かったが、これが当たり前の光景になれば良いのに、と本気で思った。
それでも教室を出ると他のクラスの生徒が何人も残っていた。それでも佐々木は僕の肩から手を離す事無く、僕の左隣を同じ歩幅、同じ速度で歩き続ける。慣れてしまえば、どうという事はないようだ。僕もいい加減に緊張するのは止めて、普段通りに振舞おうぜ。と僕の速まる鼓動に説得を試みるが、もう少し時間が必要らしい。それでもこのまま沈黙が続くのも気まずい。
「そういえば、佐々木の家って学校から遠いの?」と勇気を振り絞って素朴な疑問を投げ掛ける。
「うん、歩いて一五分程ね」
「近いんだ」と驚きながらも、佐々木の義足を考えると、徒歩十五分がどれほど遠いのか想像も付かない。
校門を抜けて、先ほどのポプラの木がそびえ立つ方向に曲がり、そのまま直線に歩き続けると同じ造りをしたアパートが3件並んでいた。その隣に一軒家の古びた平屋に辿り着いた。
「ここよ」と佐々木の足が止まる。本当に徒歩一五分位だった。
「親は居ないから気楽にしてね」と言った佐々木の後ろ姿が少し寂し気に映った。
佐々木の後を追って玄関を潜るとラベンダーの芳香剤が僕を誘惑するように挑発してきた。佐々木は靴を脱ぐために一度玄関に置いてある小さくて低い椅子に座る。
「手伝おうか?」と声を掛けるが、佐々木は無言で首を横に振って慣れた動作で左足の靴を脱ぐ。
「大塚はこういうの大丈夫?」
「こういうのって義足のこと?」
佐々木は冴えない表情で黙って頷く。
「なんて返せばいいのか分からないけど、義足も込みで佐々木だと思っている」と僕は率直に返事した。
それを聞いた佐々木は「そう」とだけ言って、右脚に付いていた義足を外す。すると、その接続部分から消毒液のような病院に居る時に漂う匂いが充満した。
「この匂い、嫌いなのよね。全然慣れないわ」と自虐的に微妙しながら右脚の先端部分をポケットから取り出したハンカチで拭き始める。
「僕も手伝うよ」と佐々木に近づこうとするが「大丈夫だから」と再び否定される。こういう場面での正解が全く分からない。
その後、義足の接続部分も一通り掃除すると、佐々木は片足で器用に立ち上がり、壁や家具に手を添えながら器用に家の中に入って行く。僕も靴を脱ぎ佐々木の後追う。
廊下を抜けると小さめの丸テーブルに丸椅子が二脚だけある殺風景な台所に突き当たる。そんな丸テーブルの上には食べかけのイチゴ味のポッキーが置いてあった。
「適当に寛いでて」と言い残して、台所の照明を点けた佐々木は台所の更に奥へと繋がる襖を開けて薄暗い奥の部屋へと姿を消す。
寛いで、と言われても…… 照明が灯り周囲が露わになるが、それでも照明自体が弱いせいで、薄暗く感じてしまう。そんな部屋を改めて見渡すがテレビもなければカレンダーもない。生活感のなさでいえば未使用の病室といい勝負ができそうなくらいに冷たい印象だ。そんな孤独な部屋に取り残された僕は椅子に座る以外の選択肢を見出せなかった。
時計も置いていないようだ。おかげで時間の進み方を忘れてしまったみたいに一人の時間が無駄に長く感じられる。落ち着かない僕はスマホを取り出して、日にちと時間を確認する。時間は全く過ぎていない。ほんの少し時計と絶縁しただけで、この体たらくだ。現代人が如何に普段から時計とカレンダーに踊らされているのかを痛感させられた。
そんな事を思っていると部屋の奥から紫色のパーカーに白い短パンに着替えた佐々木が黄色いフェンダーのストラトキャスターを抱えて台所まで戻って来た。そんなギターにはピンク色のストラップが付いていて、随分と派手な印象を放っていた。義足を外して片足になった佐々木は先程と同様に、近くの壁やテーブルに手を添えながら器用に左足だけで移動する。そんな動きを見ていると、改めて佐々木が身体障害者なのだと実感した。
「こっちの方が楽なのよ」と呟く佐々木の右足は膝から先がまったくなく、不自然に細くなった先端には肌色のテーピングが何重にも巻かれている。
佐々木の私服をはじめて見た新鮮味よりも、やはり失った右足に視線が行ってしまう。しかし、これが佐々木の本来の姿なのだ。それでも自分の心がざわついてしまうのは、僕の覚悟が全く足りなかった証拠らしい。それに比例するようにポケットの中で眠る骨が冷気を纏うように僕の太腿の一部を冷たくする。
そんな僕の動揺に気付いていないのか、佐々木は「ギターで間奏を入れようと思ってたんだけど、なかなかしっくりとくるリフができなくて。ちょっと聴いてくれない?」と言いながら、手慣れた仕草で床に転がっていたアンプとギターを繋ぐ黒いシールドを拾い上げる。随分と使い古されて配線の中身が所々で剥き出しになっていた。
「そんな所にシールドがあったんだ」と驚く僕に「アンプもちゃんとあるわよ。小さいけど」と丸テーブルの真下を指差す。
丸テーブルの下を覗き込むと小型の湯沸かしポット程のアンプが申し訳なさそうに隠れていた。
そんなアンプに繋がっているシールドを黄色いフェンダーに刺すと、ピンク色のストラップを肩にかけて僕の対面にある丸椅子に座る。手首に付けていた赤い輪ゴムを取ると肩まで伸びた黒髪を一つに束ねて、メガネを外して丸テーブルの上に置く。そしてギターのネックに左手を添えて前のめりになると佐々木の首の下から淡いピンク色のブラジャーが少し覗き込む。僕は思わず目を逸らした。
「どうかした?」
「いや、メガネ外して大丈夫なのかなって思っただけ」と今も見え続けるブラジャーには一切触れずに素朴な疑問を投げ掛ける。
「近視だから、ギターを弾く時は外しているのよ」
そう言って佐々木はギターに視線を移すと、サイドパートのコードを押さえて間奏に入る二小節前から弾きはじめる。
「弥生の空は今にも泣き出しそうな
灰色に覆われて今の私みたいに耐えてた
その時の夕陽には出会えなかったけど
私の代わりに泣いてくれたのかな」
初めて佐々木の生歌を聴き、改めてあの動画は佐々木が本当に歌っているのだと実感した。その声は当然ながら学校で聴いたスマホ越しの音源よりも生々しく佐々木の息遣いまで繊細に聴こえ、僕はただただ圧倒され続けた。
間奏に入ると佐々木の指先は急に慌ただしく蠢くように弦を押さえるギターソロに突入する。先ほどのサイドパートが止んでしまい、急に味気ない単音だけの演奏に変わってしまう。そのせいでこのギターソロが曲全体と合っているのかどうか判断が難しくなる。佐々木の脳内ではすべてのパートが同時に流れているのだろうが、僕の貧弱な脳では現在聴こえるギターの音色しか想像できない。
「どうかしら?」
活き活きとした表情で尋ねられても、僕には凄いとしか言いようがなかった。ただ僕の感覚からすれば、スローバラードみたいな曲調に対してギターソロが派手になっているように思えた…
「そもそも、本当にギターが正解なのかな?」と素直な心のうちを明かす。佐々木は意外そうに驚きながらテーブルの上に置いてあったポッキーを一本咥える。
「なるほどね。言われてみればギターに拘り過ぎてるかも」とボソリと呟くと何かを思い立ったようで、勢いよく左足だけで立ち上がり「大塚も来て」と言いながらテーブルと壁に手を添えながら襖を開き奥の部屋へと向かう。
佐々木の後を追って襖の奥へ繋がる部屋に入ると、台所よりも更に暗い照明が灯っていた。その部屋には僕の想像を遥かに超えるカオスが広がっていた。人生で初めて自分の目を疑い、何度か目を強く擦りながら何度もその部屋の全貌を見渡す。
それは先程の殺風景な台所とは打って変わり、様々な色をした無数のケーブルがパソコンを中心に様々な場所に伸びていて、何かの開発を行っている研究室のようだ。中心にあるパソコンの前には鍵盤ハーモニカほどの小さなピアノ盤が置いてあり、恐らくこのパソコンを使って作曲を行っているのだろう。そんなパソコンの前にある大きめな黒い革製のチェアーに腰を下ろした佐々木はパソコンの電源や周辺にある機器の電源を次々と入れはじめ、そこら中から起動音が沸き起こる。巨大なロボットでも動き出しそうな雰囲気が生じはじめる。
足の踏み場を探しながら僕も部屋に入るが、そんな僕の存在などお構いなしに佐々木はヘッドホンを装着して起ち上がったパソコン画面を覗き込みながらマウスを何度かクリックする。
音楽作成ソフトを立ち上げたらしく、マウスを手放した佐々木は次に目の前にある鍵盤を何度か押さえて音色を探しはじめる。そしてあらかじめ作成していたファイルを立ち上げると準備は完了したようで、もう一つあったヘッドホンを何も言わず僕に差し出す。
もはや言葉は無用だ。差し出されたヘッドホンを手に取り装着する。耳元からノイズ音が微かに聞こえるが、しばらくすると今朝学校で佐々木が聴かせてくれた曲が流れ始めた。ちゃんと佐々木の歌も入っている。そして問題の間奏に突入すると、その場所に合わせて佐々木は持っていたギターを弾き始め、先ほど台所で弾いたパートをそのまま録音する。しかし改めて曲全体にギターソロが入り込んだところで、この曲のイメージには激しい気がした。
「このパートをピアノにしてみるわね」と佐々木はギターを床に置くと慣れた手付きでパソコンのキーボードとマウスを同時に操作してパソコンに何かを指示を出す。
「これで、どうかしら?」と音楽を再生すると、先ほどのギターソロのパート部分がグランドピアノに変わっていた。
一瞬で簡単に切り替わる事に感動を覚えつつも、今度は周囲の音楽に埋もれて上手く聞こえなかった。それは素人の僕が指摘するまでもなく、佐々木がすぐに気付き間奏が終わる前に音楽を止めた。
「ちょっと高いわね。どの音域がいいかしら?」
佐々木は手に持っているマウスを動かし、カーソルを音色の種類欄に合わせるがピアノの中だけで幾つもの種類があり、僕には答えのない宝探しをしている気がして滅入ってしまいそうだった。しかし隣にいる佐々木の表情は活き活きと目を輝かせていた。普段のメガネを外した新鮮な素顔を見たとき、才能の輪郭みたいなものを目の当たりにした気がした。
才能とは与えられるものではなく、自分でめぐり逢いに行くものなのかもしれない。或いは、才能なんてものはただの言葉で、他人が勝手に決め付けているだけの虚像なのかもしれない。少なくとも隣で音楽作成をしている佐々木の姿を見ていると才能があろうとなかろうと気にせず突き進んでいる。楽しみながら苦しんでいる。そんな佐々木の姿勢に羨ましく思い、やはり何処かで嫉妬していた。ほら、その証拠にポケットの中の骨も徐々に熱を帯び始める。
「ねぇ、聴いている? この音色が合うと思うんだけど」
佐々木に気を取られて耳が疎かになってしまっていた。
「う~ん、もうちょっと低音はないの?」
「それじゃあ、これは?」
「そうそう、この音色なら合いそう!」
そんな具合で何度もリテイクを重ねて、次第に間奏の答えが徐々に見えはじめた――
それからどれくらいの時間が過ぎただろうか。
悲しみのなかにも強さがある。懐かしさのなかにも未来が感じられる。歌詞の物語性と曲全体の雰囲気を充分過ぎるほどに説明してくれるピアノ・ソロパートが完成した。
「これで良さそうね」と佐々木も満足そうに頷いた。
気が付くと、パソコン画面の端にある時計が一九時を表示していた。
「もうこんな時間だわ! 大塚、家のほうは大丈夫?」と焦る佐々木に「別に問題ないよ。それよりも佐々木の両親はまだ帰って来ないの?」と僕は既に遅くなる旨を親にスマホで連絡していた。それよりも僕が何気なくした質問に佐々木は急に暗い影を不意に落としながら微笑を浮かべた。
「うん、二人とも遠くにいるから」
そう言うと佐々木は左足だけで器用に立ち上がり台所に向かう。複雑な家庭事情でもあるのか。それにしても片足が無い娘をほったらかして両親共に何処かに行くなんて常識として考えられない。育児放棄をしているのではないか? と不安と憤りを感じるが、仕方がない事情があるのかもしれない。佐々木本人から詳細を話してくれるまで、これ以上の詮索は止めておこう。
佐々木の後を追って台所に戻ると、佐々木は冷蔵庫からお茶の入ったペットボトルを取り出してきて丸テーブルに置いた。
部屋の隅から見える半透明のすりガラスが暗くなっていた。ただでさえ暗めの照明で辺りは余計に暗く感じさせる。
「コップはあったかしら?」と佐々木は再び冷蔵庫のある方へと向かう。
「手伝うよ」と僕も慌てて佐々木の後を追う。
冷蔵庫の横の小さな食器棚には辛うじて2つのコップがあった。横には白いプレート皿が3枚だけ置いてあるだけだった。我が家の無駄に溢れた食器の数々と比べてとても寂しく感じた。
「誰も来ないからコップなんて使うの久々ね」と笑う。
「シンプルで良いと思う」と僕は返した。
それから二人で椅子に座り、2つのコップにお茶を注ぎ入れた。
「これで曲は完成?」
「そうね。あとはデータを送って、あの子が動画を撮って公開すれば完成かな」
その言葉を聞き、やはり最大の疑問にぶち当たってしまう。これはもう尋ねるしかなさそうだ。ここまで佐々木の作業を手伝ったのだ。どうせ、早かれ遅かれ知る事になるはずだ。
「どうして、藤田先輩に口パクさせるの? どう考えたって佐々木が自分で歌った方が良いと思うんだけど?」
そんな疑問に佐々木は何かを悩むように目を閉じる。
「もう共犯者だから大塚には言ってもいいかな」
また出てきた気になるワード“共犯者”
「何が?」と首を傾げる僕の目を佐々木の鋭利で真剣な眼差しが突き刺す。
「私も藤田もお金が必要なのよ」
「お金?」
意外な返答に僕は少し考え込んだ。平凡な家庭で育っている僕からすれば、お金は親にいえば出てくるものだった。そりゃあ、高額なものは渋られるけれど、多少のお小遣い増額なら、素直に聞いてもらえる。
でも、佐々木は、両親は遠くにいるって言ってた。何か事情があるのは確実だ。やはり育児放棄か。
「バイトじゃあ、足りないくらい?」と気軽に尋ねてしまった後で、佐々木の片足で気軽に出来るアルバイトなんて何があるだろうかと至極まともで残酷な疑問が湧き始めた。そんな僕の気まずさを察したのか、佐々木は優しく微笑みながら「心配してくれて、ありがとう」と優しい笑みを浮かべて話しを続ける。
「具体的な額が決まっている訳ではないけど。ただ、お互いに早く自立したい。だから、そのためのまとまった資金が欲しいの」
佐々木もそうだが、藤田先輩の方にも複雑な家庭事情を抱えているようだ。学校で見かける姿は美人で何の不満もなく生きているように見えるが、目に見える表面上の情報なんてたかが知れている。
「動画サイトに公開すれば、そのサイトの広告料とかで収入が貰えるの。はじめはそれを当てにすることにしてるのよ」
「それは何となく想像できたけど、どうして藤田先輩に口パクをさせているの?」
「藤田は顔が良いからネットに公開すれば話題になるかと思ったのよ。デモの段階であれだけの再生数が伸びるなんて想定外だったわ。だから、この完成版がネットに公開されたらもっと話題になるかも……って、そんなに甘くないか」といたずらっぽく笑う。
「藤田先輩の容姿についても、まぁ、否定しないけど、それでも口パクをする理由が分からないな。いっそのこと、藤田先輩に歌わせて佐々木は作詞・作曲に徹すれば立場的にも分かり易い」
そんな僕の一般的な指摘に対して、佐々木はいつもの曖昧な笑みを浮かべる。その表情を浮かべる時の佐々木は返答に困った時だ。
「それは…… まぁ、本人に直接尋ねれてみれば?」
喉まで出かけた言葉を呑み込み、視線を落とした佐々木の表情から察するに相当な秘密が隠されていることは容易に想像が付く。佐々木の言う通り、本人に尋ねた方が良さそうだが、そんな機会が訪れるのだろうか? 今の僕と藤田先輩に接点など、この口パクに関すること以外にない。まぁ、それは今後の流れに身を任すしか無いだろう。なんせ佐々木の曲作りを手伝ったのだ。どこかで藤田先輩とも話す機会が訪れるかもしれない。そう頭を切り替えて改めて時計を見ると二〇時を過ぎていた。
「やっぱり曲を作っていると時間が経つのが早いわね」
「佐々木の集中力は凄いな」
「集中力? そんなんじゃないわ。音楽を作っていると現実を忘れられるから楽なのよ」
「現実逃避ってヤツ?」
肩を竦めた佐々木はこれ以上の会話を遮り「それじゃあ、また明日、学校でね」と言って佐々木はメガネを掛けると僕を玄関の外まで見送ろうと立ち上がろうとする。しかし、その手間を取らせたくなかった僕は「ここで良いよ!」と佐々木を椅子から立たせずに僕は一人で玄関を潜り素早く靴を履く。
「おじゃましました」と玄関から奥に居る佐々木に告げると、佐々木は座ったまま右手を軽く振った。玄関に外された右足とラベンダーの香りも僕を見送ってくれた。
帰宅途中に見上げる夜空はいつも以上に星が輝いて見えた。慣れない作業に付き合わされたせいか随分と疲労を感じるが、それは心地の良い疲労だった。随分と充実しているのだろう。嫉妬深い性格の持ち主が佐々木の才能に触れて、少し手伝っただけで自分の手柄と勘違いしているのだろうか? だとすると、何とも幼稚で何とも下衆な下等生物なのだろう。そんないつもの自己嫌悪に陥りそうになったので、もう一度だけ空を見上げるが、空は灰色の雲に覆われて、あんなにも輝いていたはずの星々はすっかりと僕から遠ざかっていた。おかげでポケットの中の骨も何の反応も見せなかった。
帰宅するころには二一時を過ぎていた。
「ただいま」
「今日は珍しく遅かったわね?」
帰宅するなり母が心配そうな顔で出迎えてくれた。
「連絡したでしょ。友達の家に行ってたんだ」
「へぇ、友達ね」
何を勘ぐったのか、母は意味ありげな笑みを浮かべる。
しかし、僕はそれ以上何も言わず風呂場に向かった。
「母さん、もう寝るから風呂から出たらバスマット退かせておいてね」と言い残し、何かを諦めた母は早々に自室へと戻って行く。ありふれたいつもの光景なのに、佐々木の家から帰ってきたせいか、平凡な日常が幸せな光景に映った。佐々木の家は今も佐々木一人なのだろうか?
そんな事を思いながら風呂を済ませて二階に上がったころ、蓄積していた疲労が崩壊するように僕はベッドに倒れ込んだ。目を閉じると佐々木のギターを弾く姿が思い浮かび、その時の音や匂い、その時の空気、その時のブラジャーが脳裏を過る。思い返せば改めて不思議な時間が過ぎて行った。
作曲の知識がまったくない僕があの場所にいても良かったのだろうか? どうして、佐々木は僕を招き入れたのだろうか? あの完成した曲は正解なのだろうか? 僕にも佐々木のように何かしらの才能があるのだろうか? この世界は不公平で形成されているのだろうか? それが格差に繋がっているのだろうか? 様々な疑問と不満を残しながら睡魔と寄り添うようにゆっくりと紫色の夜を潜り抜ける。眠る瞬間に思い出したのは、「音楽を作っていると現実を忘れられるから楽なのよ」と寂しそうに呟いた佐々木の言葉といつもの影を落とすような暗い表情だった。

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