時の流れをうまく掴めないまま、気付けばゴールデンウィークも最終日を迎えていた。何の予定もなかった僕は、あの夜から三日後にインターネット上に公開された佐々木の楽曲を聴きながら、地道に再生数を増やしていた。無駄に時間を殺している実感はあるのに、具体的に何がしたいのか分からない。佐々木の歌を聴くたびに焦りが増すばかりで、握り締めている骨も呆れて何の反応も示してくれなかった。
時刻は十五時を過ぎた頃、何処かに行きたいけど、何処に行けば良いのか分からない。そんなモヤモヤとした状態でベッドに寝転んでいると、何の前触れもなくスマートフォンの下画面にメールの通知を知らせるアイコンが点る。何気なくメールを開くと差出人は佐々木だった。
今まさに佐々木の曲を聴いていただけに少し驚きつつも、素直に嬉しくなった。すぐにメールを開くと『暇だったら、今から家に来て』という何の飾り気のない一文だけが申し訳なさそうに空白を持て余していた。しかし、こんな短文なのに、僕には佐々木の今の状況が何となく汲み取れた。おそらく、このゴールデンウィーク中も曲作りに集中していたのだろう。集中し過ぎると他のことが疎かになる。天才肌ってヤツだ。恐らく、メールを送るだけの余裕が出たということは、曲作りがひと段落したということだろう。凄く中途半端な時刻が物語っている。
もうすぐ夕方になるが『今から行く』と返信して、すぐに服を着替えて家を飛び出た。
佐々木の家に到着すると着いた旨のメールを送る。すると、すぐに家の奥から「適当に上がって」と佐々木の声が僅かに聞こえた。そんな声に従い、恐る恐る玄関の扉を開くと外された右足とラベンダーの香りがすぐに出迎えてくれた。
靴を脱いで義足の横に置く。すると、隣に見慣れない女性モノのお洒落な革靴が置いてあった。しかも両足とも揃っている。その時点で佐々木の靴ではない事が想像できる。誰か来ているのか?
「お邪魔します」と控えめに言って廊下を抜けて台所に入ると赤いジャージ姿で黄色いギターを抱えた佐々木が冴えない表情で、丸椅子に座り、適当なコードを弾いていた。丸テーブルを挟んだ対面には淡いジーパンに白いTシャツ姿の藤田先輩が座っている。佐々木と同じような渋い表情を浮かべたまま、テーブルの上に置いてある女性向けのファッション雑誌を興味なさげにパラパラとめくっていた。よく見るとその雑誌の様々な頁にピンク色の付箋が貼られていて既に何度も読み返しているような皺が出来ていた。気になるブランドでも載っているのだろうか。そんな疑問よりも、こんなに早く藤田先輩と接点が持てる日が来るとは思わなかった。佐々木もメールで教えてくれたらいいのに、と思いつつも二人とも渋い表情を浮かべている。そのせいか、謎の圧に押しやられて台所に入り難い。しかも、僕は一方的に藤田先輩を知っているが、藤田先輩は恐らく僕の事をあまり知らないはずだ。認識しているとすれば、あの昼休みに盗み聞きした最低な男だということ。それが余計に気まずくさせているのかもしれない。
台所にギターのCマイナーが響き渡り、二人の間に沈黙が流れ続ける。しかし、このまま廊下で立ち尽くしていても埒が明かない。勇気を出して忍び足で台所に入るが、その瞬間に佐々木と目が合った。そしてずっと待っていたかのように僕の姿を捉えた佐々木は「これで揃ったわね。早速だけど、ここに来てもらったのは他ではないわ」と何の挨拶も交わさず、当然のように何かの会議が始まりそうな台詞を切り出す。そして膝に抱えていたギターを横にあったスタンドに置くと佐々木は徐に自分のスマホをテーブルに置き、つい先ほどまで僕が家で観ていた自分たちの動画サイトを開いた。そんなスマホの横には未だに藤田先輩が読んでいるファッション雑誌があり、その間にイチゴ味のポッキーが我が物で幅を利かせていた。
完成版の曲がインターネットに公開されると瞬く間に再生数は伸び、三日経った時点で三万再生を上回っていた。コメント欄には歌詞が暗いとか、曲調が古いなどマイナスな意見も疎らに見られたものの、大半は好意的なコメントが目立っていた。そのなかでも一番多く書かれていたコメントが「この子、可愛い」という藤田先輩の容姿に関するコメントだった。
まぁ、こうなることは当初から想定していたが、内情を知っている僕の立場では何とも複雑な気持ちになってしまう。
そんな僕の複雑な気持ちが表情に出ていたようで「これでいいのよ。再生数が伸びれば」と佐々木が慰めてくれるが「その再生数が思ったほど伸びてないから困っているんでしょ!」と藤田先輩は語尾を強めて悔しがっている。
佐々木と藤田先輩が揃って渋い表情を浮かべている理由を把握したところで本題に入る。
公開して今日で二週間経つが再生数は四万回に留まっている。まったく知名度のない素人がはじめて公開した動画の再生回数だと考えれば上出来過ぎる数字だと思うが、この前のデモ曲を公開した時ほどの賑わいが感じられなかったことに藤田先輩は不満を露わにする。
公開時間が深夜だったことや、有名なアーティストの新曲公開と被ったことなど、原因を上げれば切りがないが、何にしても藤田先輩が想定していた再生数には到底及んでいないようだ。
そんな芳しくない状況を打破する為の作戦会議が開かれた訳だ。
「まぁ、作戦会議はいいんだけど、どうして佐々木の彼氏もいるのよ?」
藤田先輩が変質者を見るような鋭い眼差しで僕を睨みつける。
「だから、彼氏じゃないって。それに大塚も私たちの秘密を知っちゃったんだから、もう立派な共犯者よ」
あの時、好奇心に負けたばかりに巻き込まれてしまった。まぁ、因果応報の自業自得だから文句は言えない。
「わざわざ呼ばなくても、口止めしておけばいいでしょ?」
「それが前回の音楽作成も手伝って貰ったのよ。大塚のくせに、案外良い助言を出したりしたのよ。だから私の助手みたいなもの」
「やっぱり付き合ってんじゃん」
「だから、違うって!」
何度も否定されると自然と涙が流れそうになる。でも僕は泣かない。何故なら男の子だからさ。
それにしても学校にいる藤田先輩は容姿端麗で皆に愛敬を振り撒くお嬢様のように思えたが、こうやって佐々木と話しているときは言葉使いが普段よりも刺々しくなっている気がする。素が出ているのかもしれない。いやいや、そんなことよりも今は話しを進めなくては。
「それで今日の議題は?」と二人の会話に無理矢理割り込む形で質問を投げ掛けた。佐々木は我に返った様子で軽く咳払いをしてから腕を組むと静かに話し始める。
「次の新曲についてよ。コメント欄のなかに歌詞が難しいという意見が幾つかあってね。どうしても気になっちゃったのよ。だから今度は分かり易い歌詞が良いと思うの」と肩を竦める。
「別にいいんじゃない。ターゲット層は私たちと同じ歳くらいなんでしょ?」と藤田先輩はまるで他人事のような物言いをする。
そこで佐々木は不敵な笑みを浮かべながら机の上に置いてあるポッキーを一本手に取り「そういうことだから、次の新曲の歌詞は藤田にお願いしようと思うのだけれど」と得意げな表情で提案した後にポッキーの折れる乾いた音を部屋中に響かせる。
そんな唐突な佐々木の提案に藤田先輩は呆気に取られ、目を丸くすると一瞬だけ静寂を置いた。が、その直後に「なんでそうなるのよ! 歌詞なんか書いたことないんだから無理に決まってるじゃない」と大声で否定する。驚いた反動で僕の肩がビクッと動いてしまった。
「決まってないわよ。誰だってはじめは初めてなんだから」
「ちょっと何言っているのか分かんないんだけど」
「私の歌詞は難しいのよ。そもそも簡単な歌詞が何なのか分からないわ。その分、藤田の方が変な先入観がなくて、素直な歌詞が書けると思うの」
あんなにも否定していた藤田先輩が、全く物怖じしない佐々木の余裕の笑みと尤もな意見に丸め込まれそうになっている。何か言い返したそうな顔を浮かべるが、肝心の言葉が何も出て来ないようだった。しばらく黙り込んだが、最終的に藤田先輩は渋々ながら曖昧に頷く。
「ちゃんと書けなくても知らないからね」
「むしろ、ちゃんと書こうとしないで。今の素直な気持ちを書いて欲しいわ」
「それ、地味に恥ずかしいんですけど」
「それ、私も経験したから分かるわ」
他人をこんなにも完全に丸め込む場面を見るのは初めてだった。佐々木の説得力に感心してしまう。そんな完全に丸め込まれて眉をひそめて困り顔を浮かべる藤田先輩が少し幼く見えた。藤田先輩にも色んな顔があるんだな。
そんな二人の会話を横で黙って聞いている僕は肝心な事に気付いてしまった。『僕はこの場に必要なのか?』
そんな疑問符を頭の中で浮かべた瞬間だった。
「それでは大塚に問題です。女子高生が好みそうなジャンルは何でしょう?」
佐々木からの不意打ちされた問題に一瞬だけ戸惑ってしまったが、冷静に考えれば誰でも分かる簡単な問題だ。僕が答えなくても歴史が常に答えを導いている。
「ラブソング」と端的に答えると佐々木に不敵な笑みで「正解」と人差し指を立てる。
そう、言葉にするのは簡単だ。しかし実際にラブソングと一言で言っても愛の定義を定めようとすると難解を極める。それは恋愛と一言で言っても様々なシチュエーションが考えられるからだ。
例えば、失恋ソングを一つ取ってもそうだ。付き合う前なのか、付き合った後なのか。浮気をされたのか、しかのか。悲しい別れなのか、清々しいポジティブな別れなのか。不変たる王道の愛など突き詰めれば切りがない。誰もが通るはずなのに、愛に形が無い故に共通した定義が導かれない。だから、恋愛に対して経験に勝るものはないのだろう。だから、人間という生物は愛さずには要られないようだ。
「藤田先輩だったら経験豊富そうですし、すぐに書けそうですけどね」と僕は軽い気持ちで言ったのだが、藤田先輩はあからさまに不機嫌そうに表情を曇らせ席を立ち上がる。そして「また勝手なイメージを……」とボソリと呟くと「やっぱり歌詞は書かない。もう帰る!」と語尾を強めた藤田先輩は小さな緑色のハンドバックを持ち勢いよく家から飛び出してしまった。あまりにも素早い動作に僕は唖然として身体が全く動かず、藤田先輩が遠ざかっていく姿をスローモーションで見届けることしかできなかった。その時に靡く藤田先輩の黒髪から漂う甘い香りが僕の身体を余計に動けなくさせる。
「何してるの、早く追いなさい!」と佐々木の慌てた怒鳴り声で我に返った僕は反射的に立ち上がると佐々木の言われた通り、藤田先輩を追って外に出る。
走る藤田先輩の後ろ姿を見つけた僕も急いで追いかけるが、それを察した藤田先輩は更に速度を上げて僕から遠ざかる。
藤田先輩は立ち去る前に『勝手なイメージ』と言った。それだけで、何となく察しは付いた。人間は皆、自分のなかに自分の物差しを持っている。そんな何の保障もない物差しで他人を測る行為は愚か者の証だと、むかし誰かに言われた気がする。
今の僕は間違いなく愚か者だ。だって、藤田先輩はあまりにも容姿端麗だから、それだけで無意識の内に色々と想像してしまっていた。でも、それはただの言い訳だ。
走る藤田先輩の肩に届いたのは佐々木の家を出てから一五分程が経った頃だろうか。久々に全速力で走った僕の口のなかにはほのかに血の味が滲んでいた。
「藤田先輩、僕が、悪かったです。だから、ちょっと、待って、ください」
息を整える間もなく無我夢中になっていたせいか、自分でも驚くほどの大きな声が出た。しかし、そのおかげか藤田先輩は驚いた反動で歩みを止めてくれた。幸いな事にここは閑静な住宅街で、人の姿は僕と藤田先輩以外に確認できない。それにしても藤田先輩は僕と違い全く呼吸が乱れていなかった。
「勘違いしないでよね。別に彼氏ができないんじゃないから。作らないだけだから」
そう言って、僕に背を向けたままの藤田先輩は再び速足で遠ざかりはじめる。それを追うように僕も再び藤田先輩の後ろを付いて行く。その時の二人の影が夕陽に晒され、東に向かい頼りなさそうに長く延びていた。
「本当にごめんなさい」
何度も謝罪する僕を繁華街に蔓延るスカウトマンかのように藤田先輩は無視して歩き続ける。このままでは埒が明かないと僕は少し走って藤田先輩の横に並んだ。その時に覗いた藤田先輩の瞳には何粒かの涙が頬を伝って地面に落ちていた。そんな泣き顔すら美しい。いつの間にか見惚れていると再び藤田先輩に追い越されてしまった。一体、どこまで歩き続けるのだろうか。不安が過ったところで藤田先輩の足がピタリと止まる。そこにはこの辺で一番高いマンションが僕の行く手を阻んでいた。
「私の家ここだから」
すべての感情を殺したような乾いた声で告げた藤田先輩は大理石でできた如何にも高級そうなフロントに向かうと、オートロック式の自動扉の前にあるパネル盤に向かい暗証番号を打つと、その時の小気味いい音がフロア全体に響き渡る。そんな重苦しい空間で僕は声を出す勇気を失っていた。更に追い打ちをかけるように自動扉が開く。このままでは気まずい状況のまま藤田先輩と別れてしまう。そうなってしまうと確実に今夜は眠れない。それに佐々木とも気まずい雰囲気になるだろう。何より次に藤田先輩と会う時にどんな顔をすればいいのか分からない。
そんな僕の不安を余所に藤田先輩は乾いた足音を鳴らしながら、自動扉を潜ってしまう。そんな藤田先輩を呑み込んだ自動扉は音もなく僕を嘲笑うように閉ざした。こうなってしまっては、もう関係者以外が立ち入ることは不可能だ。後ろ髪を惹かれる思いだが、このまま延々とこの扉の前に居座ってはマンションの住民に迷惑になるだろうし、不審者に思われるかもしてない。諦める以外に選択肢はないか。
フロアから出てすぐ改めてマンションを見上げる。あまりにも近所にあったせいか、今の今までまったく気にも留めなかった。一体、何階まであるのだろうか? そんなどうでもいいことを思っていると再びフロントの自動扉が開く。マンションの住人が出てきたのだろうか? と自動扉に視線を移すと、そこには先ほど別れたばかりの藤田先輩が出てきた。
その辺に落ちているボロ雑巾を見るかのような曇った眼で僕を見つけるなり「ちょっと ……家まで来て」と俯きながら気まずそうに呟く。
表情を曇らせながらも、背に腹は代えられないと言った複雑な表情が滲み出ている。そんな藤田先輩の言葉に僕はただただ困惑するしかなかった。どうせなら、先ほどの失言を許してくれたと解釈したいところだが、どうも藤田先輩の今の表情から察するに違うようだ。寧ろ、先ほど別れたときよりも更に不満を募らせているようで少し肩を震わせている。そして困惑し続けて何も言えない僕に痺れを切らした藤田先輩は僕の右腕を掴むとそのまま強引に引っ張りながら勇み足で再び自動扉を潜る。
どういう状況だ?
何の説明もしてくれない藤田先輩の沈黙が僕の心を深い深海に沈めていくように不安を募らせる。そこにはシーラカンスのような希望など微塵も見当たらないと覚悟した。しかし、まだ人生は終了していない。発想を転換させてみよう。少なからず藤田先輩と一緒に居るということは、先ほどの失言を謝罪できる場面が訪れるかもしれない。シーラカンスと仲良くなれるかもしれない。何にしろ、藤田先輩の方からマンションに招いてくれたのだ。第一関門は突破したと思っておこう。
自動扉を潜った先に1台のエレベーターが既に開いた状態で待ち構えていた。
「速く乗って」と藤田先輩はいまだに怒っているようで、無愛想な口調で僕を急かす。今は何も聞かない方が良さそうだと、諦めた僕は言われた通りエレベーターに乗り込む。エレベーター内部のボタンを見て、このマンションが一五階建てということが分かった。後から乗り込んだ藤田先輩は素早く一二階ボタンと閉じるボタンを素早く押した。
エレベーターの扉が閉まった途端に沈黙が牙を剥く。その牙で僕の心を綺麗に食らい尽くしてくれれば良いものの、藤田先輩は相変わらず何も話さない。代わりに聞こえるのは僅かに聞こえるエレベーターのモーター音だけだった。このままでは心が持たない。
どうせ、嫌われるなら早い方がいい。そう決意を固めて僕の方から「何か、あったんですか?」と尋ねる。
しかし藤田先輩は「今から私たち恋人同士だから」と想定外の返答で殴られた。
“恋人同士”
頭に無数の疑問符を降り注ぐ困惑たちが僕の心をずぶ濡れにしたせいで、思考が風邪をひいてしまいそうだ。
今になって喉が激しく渇きを訴えて来る。なんでもいいから飲み物が欲しい。
そんなボロボロの心情のままでエレベーターは無情にも ―チーンッ― と一二階に到着した事を告げる。
ゆっくりと扉が開くと同時に藤田先輩は再び僕の腕を強く掴み、強引にエレベーターから降ろすと再び速足で歩きはじめる。
終始困惑のまま藤田先輩に引っ張られていると一二〇三と金色の装飾で記された紺色の扉の前で藤田先輩の足がピタリと止まる。どうやら藤田先輩の部屋に着いたらしい。しかし、当の藤田先輩はこの扉を開くのに躊躇いがあるようで、扉の前で大きな溜息を漏らした。そんな弱った仕草から察するに、このなかに僕がこれから藤田先輩と恋人同士にならなければならない理由があることは容易に想像が付いた。さて、一体何が待ち構えているのだろうか? 相場としては親子の確執といったところか? まさか怪物が襲ってきたりはしないだろうな。そうなったら、シーラカンスに助けて貰うしかない。そんなことを考えていると藤田先輩は意を決したように扉を開き「あなたも入って」とボソリと呟くように言った。その顔は憂鬱そのもので、普段の藤田先輩は何処にもいなかった。
雑に靴を脱いで先に入った藤田先輩に続くかたちで僕も恐る恐る部屋に入る。
薄暗い玄関にはラベンダーの芳香剤の香りが辺りを包み込んでいた。佐々木の玄関と似たような匂いだ。流行っているのか?
そんな玄関には先ほど脱いだばかりの藤田先輩の靴の他に茶色い年季の入った革靴が置かれれていた。
「おかえり、裕子」
部屋の奥から低音で胸にまで届く男性の声が聞こえた。声のした方に向かい目を凝らすと、奥から灰色の草臥れたスーツを着た中年男性が出てきた。
「珍しいな。裕子が人を連れて来るなんて」
少し白髪が混じったその男性は少し目を丸くして驚いた表情を浮かべる。しかし藤田先輩のようなエキゾチックな顔立ちとは違う。本当に藤田先輩の父親なのだろうか?
しかし藤田先輩は中年男性に構う事無く、すれ違いざまに「彼氏よ」とだけ言って部屋の奥へと消えて行ってしまった。不味い。取り残されてしまった。
仲が良くないことは分かったが、乱暴に、そして不意に紹介された僕の背筋から凍るような悪寒が走り緊張感が増した。そうか、先ほど藤田先輩が『今から私たち恋人だから』と言った台詞が蘇ると何となく意味が分かってきた。特に何も悪いことはしていないはずなのに、自然と鼓動が高まり変な汗が脇と額からジワリと滲みはじめる。
彼氏と紹介された僕に対して、中年男性は警戒心を込めたような鋭い眼差しで凝視してくる。目尻には年を重ねた深い皺が更に深くなる。僕はバレないようにぎこちない笑みを浮かべ「どうも」と軽く会釈をすることしか出来なかった。
そんな気味の悪い笑顔を浮かべているのであろう僕を見飽きたのか、男性は何も言わずに軽く会釈を返した。その途端に僕への興味など全く失ったように「それよりも、父さんはまたこれから仕事に戻るから。晩飯はいらないよ」と部屋の奥に消えた藤田先輩に聞こえるように少し大きな声で話す。やはり、藤田先輩の父親で間違いなさそうだ。そうなると、藤田先輩は母親に似ているのだろうか。
「そう」と部屋の奥から素っ気ない藤田先輩の返事が聞こえた。
父親は何か言いたそうな表情を浮かべるが、そのまま後頭部をかきながら玄関へと去って行く。
僕はこの人に対して、何か声を掛けるべきなのだろうか? と迷っているうちにバタンッ! と扉が閉じた。既に藤田先輩の父親は出掛けてしまった。
初めて入った他人の家の全く知らないうす暗い廊下で一人立ち尽くしている僕は、そんな奇妙な状況を「地獄」と名付けることにした。
しかし、このまま廊下で立ち尽くしても何も始まらない。まずは藤田先輩の居る奥の部屋は向かうべきだろう。
「大丈夫ですか?」と言いながら、奥に入ると電気が消えた薄暗い状態で藤田先輩はテーブルの椅子に座り、何を見るでもなく虚ろな表情を浮かべていた。
もう一度「大丈夫ですか?」と尋ねるが「何が?」と怒りの眼差しを向けてきた。
大丈夫じゃない相手に大丈夫か? なんて、我ながらダサい問いかけをしてしまった。どうも僕は美人を目の前にすると思考がいつも以上に低下してしまう最低の人格者のようだ。それも言い訳か。僕は藤田裕子という人物を公正に認識していないのだろう。まぁ、今まで接点がなかったのだから、当然と言えば当然なのだが…… それも言い訳か。
客観的に今の状況を整理すれば、僕は今、学園一美少女の藤田先輩の家に、しかも二人きりでいる。こんな状況下で淡い期待など皆無だが、まぁ、前向きに捉えよう。そうしないと神経が持たない。
今までの藤田先輩の言動から察するに藤田家では家族関係が上手くいっていないようだ。一人で父親と会いたくないから強引にでも僕を家に上げるくらいに。他人である僕が藤田先輩の家庭事情にどれくらい踏み込んでいいのだろうか? そんな躊躇いと戸惑いと大いなる臆病風に吹かれている僕は再び藤田先輩に掛けるべき言葉を必死に探しているが、時間を消費する度に沈黙に埋もれてしまう。カーテン越しの窓からは既に光は失われ、外はすっかりと暗くなっているようだ。藤田先輩の父親はもういない。ならば、僕はもう必要ないはずなのに、このまま帰ったら永遠に藤田先輩と会えなくなってしまいそうな不安に駆られた。とりあえず今は適当な言い訳を見繕おう。
「あー、喉が渇いたなー。何か飲ませてくれませんか?」
不自然な口調に我ながら悪寒が走る。しかし、喉が渇いているのは事実だ。それに無理矢理にでも理由を付けないと居心地が悪くなる一方だ。強引に口実を作った僕を藤田先輩は今まで以上に鋭い眼差しで睨んでいる。そんな表情でさえ美しいから緊張して困ってしまう。
「ダメですか?」
「別に……ダメじゃないけど」
藤田先輩はそっと立ち上がり、手慣れた仕草で電気を灯る。すると、今まで見えなかった黄色い半透明のゴミ袋が山のように積まれている光景が広がった。テーブルの上には先程まで佐々木の家で読んでいた女性向けファッション雑誌の過去の物が何冊も積み重ねて置かれていて、そのどれにもピンク色や黄色の付箋が何枚も貼られていた。テレビでしか見たことがない、家庭崩壊の象徴とも言えるゴミ屋敷に思わず息を呑んだ。
改めて、他人の僕がどこまで尋ねていいのか線引きが難しく悩んでしまう。そんな戸惑う僕を見兼ねたのか、藤田先輩は冷蔵庫からお茶の入ったペットボトルを取り出しながら話しはじめる。
「こんな時間からスーツを着て仕事なんてある訳ないでしょうに……どうせ、またアノ女のところに行ったのよ」
そんな文句を呟きながら、藤田先輩はダルそうにペットボトルとコップをテーブルに置いた。
「アノ女?」と僕は思わず声を漏らしてしまった。
「お母さんは私が六歳の時に蒸発したの。それから私は父さんと二人暮らし。でも父さんは仕事が忙しいって言いながら、一カ月に二、三日しか家に帰って来ないのよね。だから、実質的には一人暮らしみたいなものなのよ」と、寂しそうに呟いた藤田先輩はフランス人形のような冷たい微笑を浮かべる。
そんな藤田先輩の表情を眺めながら椅子に座る。そしてテーブルに置かれたコップを手に取り、ペットボトルのお茶を注ぐ。その時のお茶を注ぐ音さえもはっきりと消えるほどの静寂さにまるで別世界に迷い込んだ錯覚に陥りそうだった。
コップいっぱいに入れたお茶を一気に飲み干すと若干の回復感を得られた。少し落ち着いたところで、藤田先輩が毎日この散らかった家で生活している場面を想像してみた…… 孤独感よりも虚無感が濃く漂っている空間だ。そんな中で藤田先輩は何を思いながら日々の生活を送っているのだろうか…… 学校で優雅に笑顔を振り撒いている姿からはまったく想像ができなかった。そこで佐々木が教えてくれた二人の目的を思い出す。確か、二人ともお金が必要だと言っていた。こんな窮屈な生活から一刻も早く脱却するには自立するしかないと考えるのは自然な流れなのだろうか。そこで何らかの理由で音楽をやっていた事を知った佐々木と組んで生活資金を稼ぐという名目で利害が一致し、動画活動を始めた。そんな具合か?
「それが容姿端麗、学園で一番美しい女子高生・藤田裕子さんの真実よ。どうせ、あなたも容姿が良いっていう理由だけで、頭が良くて、運動神経も良くて、育ちも良いお嬢様だと決めつけてたんでしょ? どう、幻滅した?」と自虐的笑みを浮かべ、開き直ったように思いの丈を言い放った藤田先輩は少しすっきりした表情で小さな胸を張って大袈裟に仁王立ちする。まだ勝手なイメージをしていた僕の発言を根に持っているようだ。
「そこまでは思ってなかったですけど、正直、見た目で勝手なイメージしてました。本当にごめんなさい」と改めて僕は頭を深く下げて謝罪をした。それを聞いた藤田先輩は少し落ち着いたのか、少しだけ柔らかい温もりを帯びた笑みを零した。そして僕の隣の椅子に座り、僕が飲み干したばかりのコップを奪い、再びペットボトルのお茶を入れてから一気に飲み干す。そして頭を切り替えるようにいつもの表情に戻った藤田先輩は「それじゃあ、許す代わりに、ひとつ私のお願いを聞いてくれる?」と真剣な眼差しを向けてくる。
「何でしょうか?」と嫌な予感を過らせ身構えつつも、逃げ場がない事も理解していた。
「さっき話したようにうちの家庭はこんなんだから、恋愛なんて胡散臭くて、どう向き合えばいいのか分からないのよ。だから、私の恋人になって」と告げる。とんでもない提案に目を丸くする僕に「もちろん、偽物のね」と付け加え「歌詞が完成するまでの間で良いからさ。付き合ってよ。所謂、恋愛ごっこってやつを」
どうやら、藤田先輩は律儀な人物らしく、佐々木との約束は果たしたいようだ。それには僕も随分と安堵した。自分のせいで次回の新曲が遅延したとなると佐々木に対して申し訳が立たない。だから、今の僕には断る権利はない。
しかし恋愛ごっこと来たか。
はじめから終わることが分かっている恋愛に、どれほどの価値があるのか分からないけれど「わかりました」と僕は了承した。
すると、藤田先輩は立ち上がり「条件は二つ。一つ、期限は歌詞ができるまで。一つ、周囲には内緒にすること」と明確なルールを提示された。実に分かり易く後腐れなさそうだ。はじめから終わることを前提とした恋愛関係。学園一の美人が僕みたいな冴えない男と付き合うと知れ渡ると何かと面倒そうだ。あれ? 今までの展開がシリアス過ぎたから冷静で居られたけど、偽物とは言え、僕はあの学園一美人な藤田先輩と付き合えるのか!? いや、浮かれるな、自分。これはあくまで歌詞を創るための手段であって、決して本気になってはいけない恋だ。そうやって必死になって脳内で沸き上がる汚い欲望の火種を消しまわる。
「分かりました。歌詞ができるまでの期間、よろしくお願いします」と僕が改めて了承すると、藤田先輩は複雑そうな笑みを浮かべ「佐々木には私から説明しておくわ」と俯いて陰を落とす。
一応の落着を迎えたと考えていいのか。もう時間も遅いし、そろそろ帰宅しようか。と僕が椅子から立ち上がろうとした時だった。
「この際だから、もう一つ教えておくわ」と不意に藤田先輩が話し始める。
「何をですか?」
「私が口パクをしている理由」
そう言って藤田先輩は未だに立ったままで、ポケットからスマホを取り出すと佐々木の歌を流しはじめた。
何をはじめる気だ?
疑問に思いつつも、事の流れを見守っているとイントロから歌い出しに差し掛かった。そこで藤田先輩は目を閉じて大きく口を開けた。そして満を持して歌い出した藤田先輩の第一声は佐々木とは比べ物にならない程に枯れ果てていた。カラスの鳴き声よりもノイズの強い、何とも不気味で聴き難い歌声だった。おまけにリズムも乱れ、所々で明らかにタイミングを外していた。音程も安定せず、高くなったり低くなったりと聴いているこちら側が不安に駆られるほどのクオリティーだった。
「どうだった?」
一フレーズだけ歌い終えた藤田先輩は満足げな表情を浮かべて感想を求める。
そんな藤田先輩の歌声に僕は唖然として思考が停止していた。そんな脳みそを最大限にフル回転させて適切な言葉を導き出す。
「個性的な歌声だったと思います」
「物は言いようね。でも、分かったでしょ? どうして、私が口パクなのか」
皆まで言わせるな、と言いたそうに頬を赤らめる藤田先輩に対して、僕もそれ以上は何も聞かなかった。でも、藤田先輩の意外な一面が垣間見れて僕はちょっと嬉しかった。これも『美人だから歌も上手いのだろう』という偏見が生んだ賜物だ。僕は残りの人生において、もう二度と外見で他人を判断しないと誓った。
玄関に向かい靴を履いたところで「そういえば、あなたが盗み聞きしていた時に佐々木が『私みたいな黒い羊』とか言っていたわよね。あれって、どういう意味?」と藤田先輩は不安そうな表情で尋ねてきた。藤田先輩なりに佐々木の学園生活を心配しているのだろうか。
「あれは佐々木が自分で言っているんですよ。身体障害者だから皆とは違うって比喩で使っているんだと思います」
「そう、自分から言っているのね。なら、いいわ」と安堵したような小さな息を落とす。それを見て、何故か僕の心が少し温かさに満ちた。
「それじゃあ、帰りますね。お邪魔しました」と告げると藤田先輩は「これからも佐々木をよろしくね」と自分ではなく、佐々木の気を遣う言葉を告げて扉を閉めた。
また藤田先輩はあのゴミ部屋に戻るのか。具体的に想像してしまうと切なくなり、ポケットの中の骨も僅かに震えているように感じる…… 骨が震える!? 驚いてポケットから骨を取り出すと骨は骨のまま、骨の姿を維持し続けていた。特に変化は見られない。気のせいか。
家に着いたのは新月が妖しく高く昇った二0時前だった。

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