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act.6 未知なる怒り

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それは夏休みを目前に控えた金曜日のこと。

「ちょっと幸太、これ見て!」

佐々木にしては珍しく興奮気味に自分のスマホ画面を僕にかざして見せる。母と出会った日を境に佐々木は僕のことを下の名前で呼ぶようになった。色んな距離が近づいている気がして恥ずかしくもあり嬉しくもある何とも歯痒い感覚を覚えていた。

そんな佐々木が差し出したスマホにはメール画面が映っていた。差出人の欄には藤田先輩の名前が表示されていた。その名前を見た瞬間に僕の胸の奥底が騒がしくなった。

無題のメールには動画に関する件で、話しがしたいとレコード会社からメールが来た旨の内容だった。当然ながら『作詞・作曲・歌は佐々木のもので、自分としては東京で自立していることだし、この件に関しては身を引きたい』と綴っていた。

確かに、動画の経緯を知ればこれ以上藤田先輩が関与する理由は見当たらない。しかし、そうなると今後は佐々木がひとりで活動しなければならなくなる。

「どうしようかしら?」

先ほどの興奮はすっかりと消えて、不安そうな表情で意見を求めてくる。コロコロと気持ちが切り替わる佐々木が恋しくも思えるこの頃だが、確かに複雑な状況だ。

動画のコメント欄の多くは藤田先輩の容姿に関する件が多かったことは確かだ。今更、世間に真実を知らせたらどうなるだろうか?佐々木に批判が殺到するかもしれない。想像するだけで怖くなる。しかしながら、ずっとこのままという訳にもいかないだろう。だから「話を聞くだけでもいいんじゃない?」と僕なりの率直な意見を述べた。少々無責任かもしれないが、自ら蒔いた種だ。その因果はいつか巡ってくる。それならば早い方がいいだろう。或いは、致命傷を避けられる可能性もありそうだ。

そんな僕の意見に対して、佐々木はしばらく考えるように黙り込んだあとで「そうね。話だけでも聞いてみようかしら」と一応の納得をした。しかし、それでも表情は晴れなかった。

メールによるとレコード会社は東京にあるらしく、佐々木の存在に興味を示している人が直接会って話がしたい、との事だった。つまり、佐々木は東京に出向かなくてはならない訳だ。

「当然、幸太も一緒に来てくれるわよね?」と佐々木は確信に似た笑みを浮かべて僕を誘う。どうやら、断る選択肢はないらしい。「分かったよ」と肩を竦めながら同意する。

そうやって夏休み最初の予定が決まった。

 

すっかりお馴染みとなった早朝の岡山駅東口にある噴水。仙台に行ったとき以来の再会だ。あの日は確か、どんよりとした梅雨空で気持ちも滅入っていた。対照的に今日は雲一つない小学生が好きそうな青空だ。あのときの自分が今の自分を見たらなんて言うだろうか? まさか佐々木とこんなにも親密な関係になるなんて想像できただろうか? 少しは褒めてくれるかな? 或いは嫉妬するだろうか? そんな事を思いながら、ポケットに入っている骨を軽く握り締める。今日はやけに冷たかった。

噴水で水遊びをしているカラスたちを眺めていると「お待たせ」と不意に佐々木の声が背後から聞こえたものだから「お! おはよう」と僕は思わず肩を竦めた。どうやら、過去の自分に想いを馳せていたせいで、周囲への警戒が低下していたようだ。

白いブラウスに黒いショートパンツ姿の佐々木はいつもより大人びて見えた。

「何かしてたの?」と心配そうに尋ねてくるが「なんでもない。カラスを見てただけ」と慌てて答える。

「カラス?」と首を傾げる佐々木も噴水のカラスに視線を送るが、あまり興味が無い様子で「ちょっと早いけど行きましょうか」とすぐにカラスから目を背ける。

「うん、行こうか」と僕もカラスから目を背け佐々木と共に駅内に向かい歩きはじめた。

前回の仙台に向かう時の佐々木と比べ、今回は随分と表情が和らいでいる。当然か。前回は壮絶な人生と向き合う旅だった。しかし今回はその逆とも言える、希望に満ちた未来に繋がる旅……になるといいのだが、不安がまったくないと言えば嘘になる。レコード会社の人に何を言われるか分からない。最悪の場合、障害者を理由に前向きな話が出来ない可能性だってある。しかし一歩踏み出すにはいつも何かしらのリスクが付き物だ。それでも一歩踏み出した者にしか栄光を掴み取る権利は与えられない。なんて、一歩も踏み出せない僕が言ったところで何の説得力もないのだが。

夏休みに入ったばかりということもあり、みどりの窓口はたくさんの人で混雑していた。早朝だからまだ閑散としていると見込んでいたが、どうやら見誤ったようだ。しかも窓口内に設置されている椅子も漏れなく混み合っていた。

「佐々木はここで待っててよ。受付用紙を取って来るから」と僕は一人で窓口に入り受付番号の書かれた紙を取り順番を待った。

 

結局、三〇分ほど待って新幹線のチケットを購入した。

待っている間も、新幹線に乗ってからも、佐々木は楽しそうに音楽の話や夏休みの宿題の話をしていた。前回は曇って見えなかったが、今回は静岡辺りではっきりと富士山が見えた。生で見るのは初めてだが、思いのほか感動はなかった。もっと近くで見れば、また印象は違うのかもしれないが。

今年二度目の東京駅ということもあってか、前回ほどの動揺はなかった。それでも新幹線から降りると既に大勢の人々が押し寄せて大海原を形成していた。田舎から来た僕には毎度ながら衝撃的で未だに慣れずに滅入ってしまう。

そんな人々の群れを潜り抜けて改札口を出たところで、ようやく一息がつけた。すると、絹のようなきめ細かなロングヘアに淡く化粧をした美女がこちらに向かって大きく手を振っている。白いワイシャツに淡い青色のジーパン姿、肩から小さな赤いバッグを下げて颯爽とこちらに向かって歩いて来る。その容姿はさながらファッションモデルそのものだった。流石は東京、全国から夢を見て様々な人が上京してくる。当然ながら、そのなかには地方の美人も多く含まれているのだろうと感心していると先程の美人がこちらに向かって再び大きく手を振ってきた。

知り合いか? それとも新手の詐欺か!? と警戒すると僕の隣にいた佐々木も懐かしそうな笑みを浮かべ、控えめに手を振り返していた。佐々木の知り合いか。安堵したところで美女は僕たちの前まで到着すると「久しぶりね。大塚も元気してた?」とフランクに話を掛けてきた。大塚と言われて妙な懐かしさが脳裏を過る。その幼い声を聞いて美女の正体にようやく気付いた。

「まさか、藤田先輩ですか!?」

思わず驚きを隠せずに言葉を漏らしていた。

「まさかも何も藤田裕子よ」

「気付かなかったの、幸太?」

何食わぬ顔の藤田先輩と眉をひそめる佐々木が同時に僕の顔を覗き込むと少し気まずい沈黙が流れた。

しかし本当に驚いた。以前よりも藤田先輩の髪は明るく、化粧の影響で随分と大人びて見える。数カ月ぶりの再会なのに、何年も経過してしまったように思える。同時に藤田先輩が随分と遠くに行ってしまったようで少し寂しくなった。

そんな僕の感傷に触れることなく藤田先輩は「それじゃあ、行きましょうか」と挨拶もそこそこに率先して大都会・東京を躊躇いも無く歩き始める。すっかりと都会に染まってしまったようだ。ちょっと前まで同じ田舎者だったのに、今となっては立派な大人に見える。

東京駅の周辺には岡山では見られないほどの高い構造物の群れが僕を威嚇するようにそびえ立っていた。一体、何階まであるのだろうかとビルの最上層を見上げるが肉眼ではよく見えない。

「ちょっとあんまりキョロキョロしないでよ。田舎者だって思われちゃうわよ」

母親のように佐々木が注意してくるが、実際に田舎者なのだから仕方ない。そんな子どものように叱られた僕を見た藤田先輩は何も言わずに笑みを零した。そんな笑みを見た瞬間、藤田先輩の佐々木に対する秘めた想いを思い出した。今も藤田先輩は佐々木のことを想っているのだろうか? 学校にいるころから藤田先輩の気持ちなんてまったく分からなかった僕が、今の藤田先輩の気持ちを理解するなんて、宇宙の真理を解き明かす以上に無理だろう。

そんな諦めの境地で藤田先輩の後を歩く事五分、絵に描いたようなウッド調の落ち着きのあるお洒落なカフェに着いた。

「ここで待ち合わせているのよ……」と藤田先輩は赤いバックからスマホを取り出し「あっ、もう着いてるみたい!」と足早に店内に入る。どうやら、先方は予定よりも早く到着しているらしい。藤田先輩を追って僕らも入店する。

「いらっしゃいませ、三名ですか?」と活き活きと挨拶するモデルみたいなウェイトレスが指を三本立てながら尋ねてきた。

「いいえ、待ち合わせで既に一人居ます」と藤田先輩は店内を見渡す。すると、窓際の一番奥にあるテーブル席で灰色のスーツに縁なしメガネを掛けた女性がこちらに向かい手を振っていた。それに気づいた藤田先輩も手を振り返す。

「それではご案内します」とウェイトレスも状況を把握し、僕らを女性が待つ席まで導く。

「お待たせしました」

「いいえ、前の要件が早く済んだのよ」と言いながら女性は微笑みながら立ち上がると、早速佐々木の顔を覗き込む。

「それよりも、あなたが佐々木さんね。私はコバルト・レコードの寺原です。よろしくね」

落ち着いた大人びた声質の寺原さんは改めて優しい笑みを浮かべて名刺を差し出す。とてもスマートな振舞に僕の方が慄いてしまうくらいだ。しかし、こちらは学生という身分で当然ながら名刺など持ち合わせていない。

そんな寺原さんの名刺を「どうも」と言いながら、佐々木は軽く会釈をしながら両手で受け取る。最低限のビジネスマナーは持ち合わせているようだ。

「座って、座って」と寺原さんに促されるまま、藤田先輩は寺原さんの隣に、佐々木は寺原さんの対面に座る。僕は余った佐々木の隣に座った。

「話は藤田さんから聞いてるわ。全然かわいいじゃない! 化粧をして、自信を持てば更に良くなるわ」と寺原さんはメガネを輝かせながら改めて佐々木の顔を一通り観察する。一体、藤田先輩は寺原さんに何て説明したのだろうか? おそらくだが、随分と低いハードルを置いたおかげで寺原さんは心底安堵している様子だ。ちょっと佐々木に失礼な気もするが、藤田先輩なりに気を回したのだろう。

「まぁ今の時代、無理に顔を出す必要もないけどね。だけどね、折角自分で作って自分で歌っているのだから、自分を出した方が表現の幅が広がると思うわ」と寺原さんは満面の笑みで持論を唱えた。その顔に微塵の歪みも見られず、本心で言っていることが伝わる。どうやら、悪い人ではなさそうだ。

佐々木は手に持っていた名刺を僕に渡す。

横書きの名刺の中央に“寺原さやか”と記され、左上にコバルト・レコードのロゴが添えられていた。右下には携帯番号とメールアドレスが記され、役職らしい名称は特に書かれていない。レコード会社にしては少々地味な印象だが、現実とはそんなものなのか。

それから寺原さんは、今後の具体的なプランと活動内容を丁寧に説明してくれた。最初は警戒していた佐々木だったが、寺原さんが話す具体的な内容に興味を持ったようで、何度も相槌を打ちながら、いつの間にか食い入るように話を聞いていた。

「私の考えだけど、まずはインディーズで活動するのをオススメするわ。その方が何かと融通が利くから。まぁ、ゆっくりと考えてみて」

そう言いながら、寺原さんは自分の腕時計に目をやり「あら、もうこんな時間! 悪いけど、次の要件が急遽早まっちゃったから行くわね」と横の棚に置いてあった茶色い皮のバッグを持って席を立つ。

そんな感じで終始慌ただしく寺原さんとの会話(というより、一方的に寺原さんからの提案)は終わった。時間にして三〇分程か。それならメールでのやり取りだけで済みそうな気もするが…… 直接会って佐々木の顔を確認することが目的だったのかもしれない。それに直接話す事で分かる雰囲気のようなものもあるだろう。

「いつでもいいから連絡頂戴ね」

最後まで気さくな寺原さんはテーブルに刺さっていたレシートを手に取ってレジに向かった。終始圧倒されっぱなしだったせいで、その場に取り残された僕たちは思わず話すと行為を忘れて放心状態で沈黙に陥った。嵐の後の静けさ。会計を済ませて店から出た寺原さんの後ろ姿を窓越しに見守っていると途端に人の波に飲まれてすぐに見えなくなった。しばらくそんな多くの人々が行き交う姿を眺めていると黒いシルクハットを被った男がこちらに近づいてきた。

窓越しに僕の存在に気付いたシルクハットの男は深くお辞儀をするが、僕は何も見えないフリをして佐々木に適当な話を振ろうとする。

しかし外で深いお辞儀を済ませたシルクハットの男は、何を考えているのか、店に入ってきた。扉が開いているのに、ウェイトレスは何も気づかず他のテーブルの応対をしている。誰にも見えていないようで、明らかに周囲に馴染んでいない豪華なパーティーで着るようなタキシード姿なのに、店は平穏そのものだ。そのままシルクハットの男は僕の席まで躊躇う事無く早足で向かって来る。

勘弁してくれ! まだ夢の中じゃないぞ。と心の中で動揺していると、シルクハットの男はとうとう僕が座る席の前まで辿り着く。そして再び深いお辞儀をして「お久しぶりですね。またこちらに来られたのですか?」と尋ねてきた。

どうしようか、佐々木と藤田先輩に何て言い訳をすれば良いものかと二人の顔を覗くが、二人とも店内の人々と同様にシルクハットの男に気付いていないようだ。未だに寺原さんが提案してくれた件について会話をしていた。

「ちょっとトイレ」と言い残して、僕は席を立ち急いでトイレに逃げ込んだ。案の定、シルクハットの男も僕の背後から付いてきている。

幸いなことに男子トイレには誰も居なかった。僕は迷わず便座に座りドアの鍵を閉めた。

すると、シルクハットの男は何も無かったかのように、閉ざしたドアをすり抜けて僕の前に立つ。物理が通用しない存在。もはやこの世の者ではない事は確かだ。シルクハットの男を見上げるが顔は漆黒の霧に覆われて伺えない。或いは、顔など始めから持ち合わせていないのかもしれない。

「おやおや、お腹の調子が悪くなりましたか?」と白々しく尋ねてくるシルクハットの男。

「お前が来たからここまで移動したんだよ。東京ダビンチ」と僕は小声で怒りをぶつける。そんな僕の態度に全てを察したようで、東京ダビンチは何度かシルクハットの揺らしながら頷くと「そうですか。私の存在を周囲に悟られたくないという事ですね。それならば心配いりません。私はあなた以外の人物には認識できない存在ですから」と軽くお辞儀をする。

しかし、東京ダビンチの言葉が理解できなかった。

「どういうことだ?」

「端的に申しまして、私は平行世界を管理する者。普通の人間とは干渉できないのです」

「普通の人間とは?」

「そう、つまりあなたは普通の人間ではありません」

そう告げられた瞬間、ポケットの中の骨が青白く輝き始めトイレ全体を光で呑み込む。僕は思わず目を閉じた――

――しばらく経って恐る恐る目を開けると、そこは宇宙空間だった。

便座に座っていたはずなのに、今は地球の真上で宇宙を漂っていた。本当に地球は青いようだ。

「ここは何処だ?」

「宇宙ですよ。初めてですか?」

「もちろんだ。宇宙に行った人類なんて数える位しか居ない」

しかし、今は宇宙なんてどうでもいい。

「わざわざ現実の世界まで現れてきたんだ。何か用事があるんじゃないか?」と僕が用件を尋ねると「そうですね、あなたも忙しそうなので単刀直入に申しまして、その骨を回収させて頂きに来ました。もちろん強制ではありませんが」と僕のポケットで今も眩い輝きを放ち続ける骨を指差す。

「この骨… 一体、何なんだ?」と僕は急いでポケットから骨を取り出す。

「その骨は平行世界を干渉する素材のような物です。普通の人間が持っていては危ない代物なのです。あなたも何度か不可解な光景をその骨を通じて拝見されませんでしたか?」

言われてみれば、確か藤田先輩と一緒に乗ったフェリーの中。あの時は僕と藤田先輩じゃない女性とフェリーに乗っていた。

「あれはこの宇宙の何処かに存在する並行世界のあなたの光景です」とあっさりと答えを告げた東京ダビンチは再びお辞儀をする。

それじゃあ、東京の公園で弾き語りをしていた両足のある佐々木の姿も?

「あれもこの宇宙の何処かに存在する並行世界で東日本大震災が発生しなかった街のとある光景です」と再び東京ダビンチは深々とお辞儀をする。

俄かには信じがたいが、言われてみれば納得できる部分が多い。

「そんな奇妙な骨をどうして僕が持っているのだろう?」

「恐らく、無数に存在する並行世界の中に生きるあなた以外のあなたがスターオメガだったのでしょう」と当然のように言い放つ。

「スターオメガ?」

「特別な存在です。なので、或いはあなた自身もスターオメガの可能性を探っていたのですが…」と言いながら、東京ダビンチは首を横に振り「スターオメガには額の中心に第三の目が現れるのですが、あなたにはその兆しすら現れませんでした。即ち」と最後まで言葉は紡がなかった。どうやら、僕の額に第三の目は現れないらしい。それは良かった。この骨ともおさらばできる。

手のひらで未だに光り続ける骨を東京ダビンチに差し出すと「本当によろしいのでしょうか?」と最終確認を促される。

「僕が扱える代物じゃない。それに僕は今の並行世界の僕でしかない。それ以外の僕は僕じゃない」

「そうですか」と少し寂しそうに呟いた東京ダビンチは僕から骨を受け取ると次第に全身が薄くなり始める。

「これで、もうあなたとお会いする事もないでしょう。どうか、お達者で」という声が反響して宇宙の彼方へと消え去った――

気付くとトイレの便座に座っていた。変な夢を見た気がするが、全く覚えていない。どうして僕はトイレなんかに入ったのだろう? ついでだから、用を足しておこうか。

手を洗い二人が居る席に戻ると、藤田先輩が話していた。

「まぁ、悪い人ではないと思うわ。もしも、佐々木がその気なら私はいいと思うけど?」

そんな藤田先輩のアドバイスに佐々木は曖昧に小さく頷くが、眉をひそめたその表情は明らかに戸惑っている様子だ。こんな時、僕は何て言葉をかければいいのだろうか。佐々木が悩み続けるだけ沈黙が続く。そんな沈黙の長さに比例するように僕の心まで沈んでしまいそうだ。

耐えられなくなった僕は「寺原さんも言ってたけど、ゆっくりと考えればいいと思うよ。焦る必要はない」と尤もらしい言葉を掛けるが、それでも佐々木は曖昧に頷くだけだった。

現在、佐々木は人生の重要な岐路に立っている。適当な助言はできない。さて、どうしたものか?

僕が言葉を選ぼうとした時「そうそう、これを見て!」と強引に沈黙を打ち消すように藤田先輩がバッグの中から女性ファッション雑誌を取り出しページをパラパラと捲る。

「このページの端っこなんだけど」と藤田先輩は得意げな表情でページの右下を指差す。僕と佐々木が揃って目を細めて覗き込むと、随分と小さなスナップショットに藤田先輩が載っていた。

「岡山にいた頃は顔が良いってだけでチヤホヤされて天狗になってたわ。東京に出てきたら私より可愛い子なんてそこら辺にいるんだもの、本当に心が折れそう」と言いつつも、藤田先輩の瞳は活き活きと輝いていた。そう言えば、いつだったか僕の不用意な一言で藤田先輩を怒らせたことがあった。岡山にいた頃は外見で判断されることを随分と嫌っていたのに、東京という環境は藤田先輩のことを勝手な偏見を持たずに見てくれているらしい。

「今はまだこんな扱いだけどコツコツと頑張って表紙を飾れるくらい有名になるから」

そう言った藤田先輩は強い決意を込めた澄んだ瞳を佐々木に向ける。藤田先輩なりのエールだ。雑誌に載る小さな藤田先輩を見つめる佐々木の顔が緩むと、最後には何かをはじめたそうな前向きな笑みに変化した。

モデルを目指す藤田先輩に、歌手を目指す佐々木。そんな彼女と彼女の関係性が羨ましく映る。それに比べて僕は何がしたいのだろうか。再び心の神に問いかけるが、やはり僕の心のなかにはまだ信仰すべき神が宿っていない。それは、言い換えれば無限の可能性を秘めている。いや、そんなにカッコイイものじゃない。一歩踏み出す勇気を持てないだけだ。僕も早く二人に胸を張って語れるような夢を見つけよう。

その後、佐々木と藤田先輩はお互いに近況を報告し合い次第に会話が弾みだす。数十分もしないうちに、藤田先輩は転校する前の雰囲気に戻っていた。

「ちょっとトイレ」

一頻り会話を楽しんだ佐々木は満足したのか、慣れた動作で席を立つとぎこちない歩き方で店の奥にあるトイレへと向かった。その途端、僕と藤田先輩は久々の二人きりになり、謎の緊張が走った。すると、この瞬間を待っていたかのように藤田先輩は意味ありげに悪戯な笑みを浮かべる。

「聞いたわよ。あの子と一緒に仙台まで付き添ってあげたらしいわね。大塚のくせに生意気ね」と藤田先輩は安堵した笑みを浮かべつつ、少し寂しそうに溜息を漏らした。

「この世界に家族がいないなんて、不安で仕方がないはずよ。私たちが想像するよりも遥かにね」

「はい。そうだと思います」

藤田先輩と佐々木は僕が出会う前から交流していた。だから、僕の知らない間に築き上げた二人だけの信頼関係がどれ程なのか分からない。しかし、少なくとも佐々木の壮絶な過去を藤田先輩も知っているようだ。だから、というわけではないだろうが、佐々木に協力したくて動画に参加したのかもしれない。

「大塚、これからもあの子を支えてあげてね」と言いながら、藤田先輩の右目から一筋の涙が零れ落ちた。それは、今まで密かに抱いていた佐々木への想いをすべて洗い流すような美しい涙だった。そう簡単に人の想いは断ち切れない。藤田先輩と佐々木がどうやって出会って、どんな言葉を掛けて、どんな流れで仲良くなったのか。僕の知らない二人だけの世界。そんな藤田先輩の中で大切だった思い出を思い出として閉じてしまうのは、何故かとても悲しい事のように思えた。だとしても、それでも藤田先輩は前へ踏み出す為に選んだ決断なのだろう。そんな思いを託されても、僕がどれくらい佐々木を支えられるのか分からない。だけど、僕の心の神が佐々木に対する思いだけは紛れもない真実だと告げた気がした。

「はい、僕のできる限りで佐々木を支えていきます」

結婚式に行う愛の誓いみたいだ。

「なんで大塚が泣くのよ」と藤田先輩に言われるまで自分が泣いていることに気付かなった。

店の奥から佐々木が出て来る姿が見えた途端、藤田先輩と二人して慌てて涙を拭くと何事もなかったかのように適当に会話をして誤魔化す。

「何かあった?」

「別に。それよりも聞いて」と不思議がる佐々木を振り切ろうと、藤田先輩は強引に会話をはじめる。藤田先輩と父親の話だ。藤田先輩の父親は東京の女と付き合っていたらしく、いま再婚するかどうかを考えている最中らしい。そんな状況でも藤田先輩はたくましく生きようとしている。こればかりは大人の事情で、僕自身も何もしてあげられない。それでも今の藤田先輩は大きな挑戦を目の当たりにして強い眼差しをしたアスリートみたいだった。もう大丈夫だろう。

その後も時間を忘れて様々な会話を楽しむ二人に、僕もただ相槌を打ちながら聞いていたが、突然「もうこんな時間! 新幹線の時間は大丈夫?」と藤田先輩が時間の心配をする。もう夏休みに入り僕は特に何の予定も無かったのだが、佐々木の方に急な所用が入っていた為に夕方の便で帰らなければならなった。

「また近いうちに岡山に帰るから、また会いましょう」と言いながら、藤田先輩は佐々木の手を握る。

「あなたも頑張ってね。私も頑張るから」と佐々木も藤田先輩の手を強く握り返す。

別れ際の藤田先輩は少し寂しそうに目を細めていた――

 

帰りの新幹線のなか、佐々木は終始無言を貫き、険しい顔で流れる景色を眺めていた。

おそらく、寺原さんの提案について考えているのだろう。人が孤独になる時、それは真正面から自分と向き合っている時間だ。だから孤独な時間が人を強くするのだろう。

「孤独なくして成長なし」今の佐々木を眺めながら、自分なりの教訓を見つけることができた。僕もこの先、積極的に孤独な時間を過ごそう。

車窓から目を離さない佐々木だったが、そんな佐々木の右手が徐に僕の左手へと近づいてきた。森に迷って怯える仔羊のような佐々木の右手を羊使いのような優しい眼差しで僕の左手が握りしめる。それだけで遠くにある富士山の麓が少しだけ平和に見えた。もう群れから逸れた黒い羊は何処にも居ない。冷たかった佐々木の右手が少しずつ温まる。その微熱は僕の心にまで浸透してきた。

静岡、名古屋、新大阪……僕たちはずっと手を握ったまま同じ車窓から同じ景色を眺めていた。そこに言葉はなかった。時より聞こえる新幹線の摩擦音とアナウンスがBGM代わりにして、僕も佐々木も自分の世界観に浸り自分を見つめ直す時間となった。

 

まだ夏休みははじまったばかりだが、東京へ行った以外にそれと言った予定は特になかった。何もしないまま無駄に時間を殺す事は残酷な行為だと気付いていながらも、だからと言って「何をすればいいんだろう?」と僕がぼやくように呟くと「それじゃあ、ギターでも弾いてみる?」と言いながら、佐々木はいつも弾いているエレキギターを差し出す。

戸惑いながらギターを受け取ると「それとコレ」と、どこからともなく『サルでも弾けるギター本』という随分と色褪せた表紙の本を持ち出して僕に手渡す。佐々木は随分と嬉しそうに微笑む。

初めて手にしたエレキギターは見た目以上に重く、随分と冷たかった。そもそも「軽はずみにギターをはじめて良いものなのか?」そんな素朴な疑問を投げ掛けると「ギターを弾くのに理由なんて要らないわ。難しいことを考える前にまずは行動よ!」と佐々木が強く僕の右肩を叩いた。

それもそうか。と納得したところで、椅子に座りギターを構えてネックに手を添えてみる……

「佐々木先生、何からはじめればいいでしょうか?」と僕が敬礼すると「まずはコードを覚えることが基本ね」と佐々木が先程の本を捲り、コード一覧表が載ったページを出てきた。たくさんのコードに僕はすぐに挫折する。

「別にすべて覚える必要ないわ。簡単なコードだけでも弾ける曲はたくさんあるから」と言って、佐々木はシンプルなメジャーコードを教えてくれた。おそらく、ギターを弾く人が初めて押さえるであろうCメジャーだ。

早速、迷いながら震える指先を指定された箇所に押さえて弦を鳴らしてみるが、何本かの弦が自分の不要な指に触れて上手く弦が響かない。おそらく、この不穏な音も初めてギターを弾く人が必ず聞く音色なのだろう。

「ずっとギターに触れていれば、指先の皮が硬くなってネックに馴染んでくるわ」と言いながら、佐々木は自分の左手を差し出してきた。僕は自然と佐々木の指先を触ってみた。

「本当だ。硬い!」

新幹線の時に握った右手とは異なり、想像以上に硬い。そんな佐々木の指先を何度も触っていると、不意に佐々木が左手を僕から遠ざける。

「はい、休憩おしまい。基本のCメジャー!」と言って何かを誤魔化すように、佐々木のギター・レッスンがはじまった。

そんなこんなで夏休みのほとんどを佐々木の家でギターを弾く日々がはじまった。

 

それから数日後、もう夏休みは佐々木の家で過ごす事が当たり前のようになった頃。その日も朝から佐々木の玄関前に着くとギターの音が屋外に居ても聞こえるほどの大音量で響いていた。

何事かと驚いてノックもせずに慌てて佐々木の家に入ると、白い下着姿でアンプに繋げたギターを抱え、速弾きの練習をする佐々木の姿があった。そんな佐々木の下着姿に僕は思わず息を呑んだ。ブラジャーのサイズが合っていないのか、もう少し背中を前に屈めると佐々木の乳房が露わになってしまいそうな微妙で絶妙な角度をキープしていた。そんな動揺する僕を他所に佐々木は我を忘れてギターを押さえる指を見つけながら、もっと速く尚且つ正確に弾くよう心かけているのだが、その表情はどこか怒りに似た不穏な表情を浮かべている。

そんな佐々木をしばらく見守っていると「幸太? 来てたんだ」と到着して十五分で僕の存在に気付いた。一応の満足をしたのか佐々木は何事もなかったかようにギターをスタンドに戻す。

不安になった僕は「何かあった?」と尋ねるが「何かって何?」と質問を質問で返され、しばらくの沈黙が流れる。窓の外から蝉の大合唱が聞こえる。お互いに眼が離せない状況になると佐々木の方が先に根負けしたように溜息を漏らし、「ちょっと……っていうか、だいぶ迷ってるのよね」と観念したように弱音を吐いた。そういえば、東京から帰って来てからの佐々木はときより意識がどこかに行ったように会話が成立しないことがあった。

「インディーズ活動のこと?」

「そう。私はお金が欲しくて曲をネットに公開しただけで、本格的なプロになろうなんて微塵も思わなかったわ。それに私は義足だから、もしも自分の作った音楽よりも障害者という部分に注目が集まったら抵抗がある」

今まで漠然としていた目標が急にリアルな輪郭を現したのだ。そんな目標に対して、義足という存在が足枷になり佐々木を惑わせているというわけか。僕はもうすっかり慣れてしまい佐々木が障害者だということを忘れるほどだ。しかし、確かに何も知らない人が佐々木の歌う姿を見て、まず目に留まるのは義足か。それならば義足を隠して演奏はできないだろうか?

「それに今はお母さんの保険金が下りたから、当面の生活には困っていないの… なんだろう、ハングリー精神ってやつ? それが不足しているのかも」と佐々木は首を傾げる。

そんな佐々木の葛藤が不安となり、先ほどのギターに至ったというわけか。そういえば、何かの雑誌で書いてあった記事を思い出す。『人間として生きていれば、その都度様々な困難に遭遇する。それは世のなかの矛盾に押し殺されそうになったり、抗えない運命や無慈悲な絶望に苛まれそうになったりすることもある。そんな困難に出くわした際、人間は二種類に分類される。諦めてしまう人間と、どうにか抵抗しようと挑戦する人間だ。前者の方が一般人で後者の方がアーティストだ。その抵抗する表現方法が絵画ならば絵描きになるし、物語を綴るならば小説家になるし、歌にするならば音楽家になる』と言う趣旨の記事だ。

何にしてもアーティストの本質は変わらない。佐々木は現在抱えている漠然とした不安をちゃんとギターで表現しようとしている。立派なアーティストだ。

「今、佐々木のなかにある心の感情をそのまま歌にすればいいんだと思う。逆に言えば、そうすることでしか本当の曲は生まれないんじゃないかな。そもそも論として、お金が欲しくて曲を作る行為を人はプロと呼ぶ。それに佐々木は仙台で“自分で歌を作りはじめてから抜け殻に意味を持ちはじめた”って言ってたよね。それって、つまり佐々木にとって歌を作ることこそが生きている意味なんじゃないの?」と僕は佐々木に一緒に見た仙台の海を思い出しながら助言する。

そんな僕の言葉に佐々木は何かを思い付いたように目を見開いたまま僕を見つめる。

「どうした?」と尋ねると「今、何か降ってきたかも」と佐々木は何かを思い立ったように呟く。

「降ってきた。何が?」

「テーマというか今の感情というか。兎に角、次の新曲の構想みたいなものよ」

先ほどの迷える佐々木が嘘だったみたいに、活き活きとした目に変わっていた。再びエレキギターを手に取った佐々木は繋がっていたシールドを外して、今度は小さな音で弾きはじめる。

「今の感情って?」

「未知なる怒り。かな」

「未知なる怒り?」

「そう。最近、何かとモヤモヤした怒りが多かったわ」

「そんな怒りをテーマに新曲を作ると?」

「そう。現段階ではどんな感じになるかサッパリ分からないけどね」と言いながらも佐々木はギターに夢中だった。そうなると、もはや僕の言葉は邪魔以外の何物でもない。兎に角、いつもの佐々木に戻っただけで満足しよう。

そんなこんなで残りの夏休みの大半は佐々木の新曲作成に割かれた。おかげで宿題が終わったのは夏休み最終日の真夜中だった。佐々木と二人で手分けした甲斐あってギリギリ間に合った。そうやって慌ただしく夏休みは去って行った。

 

佐々木が再び東京に向かったのは二学期が終わろうとしている一二月の下旬だった。

前回と同様に僕も同行したかったが、母親が体調を崩して看病しないといけなくなり断念した。

だから佐々木のインディーズ契約の瞬間も、その直後に行われたインディーズ・デビューとなる新曲のレコーディングにも関われなかった。

一月四日、佐々木の自宅に上がるとテーブルの上にレターパックの郵便物が置かれていた。何気なく差出人を見るとコバルト・レコードと手書きで書かれていた。その字面を見た瞬間、寺原さんの名刺が思い浮かんだ。

「これは?」と僕が尋ねると「多分、DVDね」と興味無さげに答える。

「ふ~ん」と僕も興味無さげに答えてみるが、テーブルのど真ん中を占拠していると嫌でも目に入る。

「開けてみないの?」

「まぁ、想像できるから」と何とも乗り気じゃない佐々木はギターを右膝に乗せてネックに左手を添えていた。

「開けても良い?」

「ご自由に」と許可を得たところでレターパックの赤い開け口を引っ張り丁寧に開いていく。すると、中身はプチプチの緩衝材が何重にも巻かれたディスクが出てきた。佐々木の言った通りDVDのようだ。

「DVDの中身は何か知ってるの?」

そんな僕の質問に佐々木は少し眉間に皺を寄せる。

「まぁ、ね。多分、この前、レコーディングした曲のプロモーションビデオだと思う」

「えっ、絶対観たいんですけど」

「まぁ、そう言うわよね」と佐々木は溜息交じりに観念する。

「何か嫌なの?」

「嫌じゃないけど、完成品を自分もまだ観てないから、ちょっと不安なのよね」と躊躇う。

「それでも、いつかは観る事になるんだろ?」

「そうね、それじゃあ観てみますか」と佐々木はゆっくりと片足で立ち上がる。

緩衝材から中のDVDを取り出して佐々木に渡すと佐々木は奥の部屋へと向かう。どうやら、この家でDVDを観るにはパソコンを使用するしか無さそうだ。

様々なケーブルだらけの床面に入ると佐々木はすぐにパソコンの電源を立ち上げる。

ウィンドウズの起動画面が終わり、通常画面に切り替わったところでディスクドライブにDVDを入れる。

「予め言っておくけど、今回の映像は全てアニメーションだからね」と佐々木が呟くように教えてくれた。僕は曖昧に頷いた。

「それじゃあ、再生するわよ」と言いながら、佐々木はマウスカーソルを再生ボタンに合わせてクリックした。

パソコンがガタガタと派手な音を立てながらDVDが回転すると、画面にはトランプのスペード模様に似たレコード会社のロゴが現れる。それから数秒後に本編がはじまった――

 

――色彩豊かなネオンサインが浮かぶビル群が映り出された。雨が降りしきる夜空に黒いパーカーを深く被り、歩き続ける少女が徐に空を睨むように見上げた所から、甲高いギターの激しいリフが鳴り響く。

前奏と共に曲のタイトルである『ikari』が殴り書きされたような激しいフォントでスライドしながら画面中央に現れる。

 

「好きな事しかしない私をどうか蔑んでください そうすればいつかあなたを後悔させてあげるから」

なんて威勢のいいことを言い放ったけどね 人生は生きれば生きるほど矛盾に襲われるものよ

 

メラメラ……燃えてる炎は ユラユラ……紫に揺れて尚も……

 

ikariという名の果実を食べて お眠りなさい 夢が夢じゃなくなった意味を 理解していなかった

過去が過去に犯される感覚を まだ味わっている 好きなものが嫌いになった あの日の私を殺すの

相当エキゾチックに どこかロマンチックに 狙い撃ち

 

サビのシーンから少女が、ビルの屋上で激しく首を振りながらギターをかき鳴らす。佐々木が手かけた作品としては初めてのジャンルであるハードロックに驚きつつも、これが夏休みに佐々木の言った『未知なる怒り』を表現したのかと思うと妙に納得できた。

 

漠然とした不安は未来が見えないからって言うけど ねぇ、未来が分かったら生きる価値なんてないでしょ?

分かっているのに沸き上がる怒りはどうして制御できない 女の子の日でもないのに無性に叫びたくなるから

 

ハラハラ……舞い散る桜は ジワジワ……私を埋もれさせて

 

昨日が明日を追い越した孤独 まだ覚えているの 妄想の墓場には今も続く 死神の長い行列

あり得ない事件ばかり流すテレビ もう見てないわ

相当メランコリックに だけどドラマチックに 狙い撃ち

 

後奏など全く無くいきなり曲が終わると、このプロモーションビデオに携わったスタッフのクレジットが辺り一面に表示される。

更に、画面が一瞬だけ暗くなるとすぐさま作詞・作曲『YU-KO』と所属先であるコバルト・レコードのロゴが大きく表示されて動画が終わる――

 

『YU-KO』それが佐々木のアーティスト名義らしい。色々とレコード会社と話し合ったのだろうか。ここで尋ねるのは無粋というものか。

タイトルである『 ikari 』は寺原さんのアイディアだと佐々木が教えてくれた。

「はじめ『赤い怒りの行方』にしてたんだけどね。寺原さんに「ちょっと難しいかも」と却下されちゃった。その辺、流石は色々なアーティストと仕事しているだけあって納得しちゃったわ」と佐々木は空笑いをする。

確かに、仮タイトルの方が佐々木らしいと思うが、インディーズとは言えプロならばお金を稼がなくてはならない。どちらにしても明確な答えは無いが、今回は寺原さんの意見が無難な気がした。

この作品は一月下旬にネット配信を行い、その反応を見てから初回分のCD生産枚数を決めるらしい。相場としては無名の新人だと、二千枚生産できれば上出来だと言う。

「でも不安なのよね」と佐々木は溜息を漏らす。

恐らく、ネットでデビュー前に公開した作品も大々的に宣伝すれば、或いは二千枚は容易く超えるだろう。しかし、その動画では藤田先輩が歌っている事になっている。世間を欺いた行為はそう簡単に許されないだろう。そんな経緯もあり、今回はあくまで正体不明の音楽少女という設定でデビューする方向で決まったようだ。その意向に関しては部外者の僕は口を挟む余地はなかった。

しかし、何かの切欠で藤田先輩の口パクが世間に発覚する時が来るかもしれないが、少なくとも今は当人たちと僕と寺原さんしか知らない秘密だ。『真実はいつも一つ』なんて言うけど、場合によっては知らない方が幸せな真実が世界中には多く転がっている。都市伝説みたいに、このまま穏便に済めばいいのだが。

そんな不安を抱きつつも、やはりネットの反応が気になる。しかし、こればかりは時間が経たなければ答えは出ない。

「さて、次の曲を作るわよ」と佐々木はパソコンの前で立ち上がると再び壁伝いで台所に戻りギターを手に取る。

当人である佐々木は作品の売れ行きよりも新たな曲作りの方が大切らしい。何とも、佐々木らしくて頼もしい。

結果的に今回は顔を出さずにインディーズ・デビューを果たせた訳だが、今後はどうなるのだろうか? 考えても仕方がないことばかりが佐々木を貫通して僕に刺さってくる。

ポケットに手を突っ込んでも中に何も無かった。ただそれだけのことなのに、何故か、とても切なく悲しく感じ…… 何か、思い出せそうな気がした。

 

三週間後、寺原さんの予想に反して佐々木の『ikari』はネット配信で数万回の再生数を稼ぎ、CD生産枚数は一万枚になった。その実績が認められ、メジャーデビューに関する話が加速することとなった。

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