翌朝、いつもより三0分ほど早く学校に着いたが、やはり教室の中には既に佐々木の姿があった。それ以外の生徒は居なく、いつも通りの静寂に包まれた風景が広がっていた。しかし佐々木の表情はいつもの詰まらなそうな無表情とは異なり、僕を見るなり意味ありげな笑みを浮かべて頬杖を付いた。その表情から察するに、昨夜のうちに藤田先輩から『恋愛ごっこ』の経緯を聞かされたのだろう。しかし、藤田先輩がどんな具合に説明をしたのだろうか。誤解されないように、ちゃんと自分からも説明しておこうと「僕の方からも」と話を切り出そうとした途端に「おはよう、大塚」と僕の言葉を遮るように佐々木は冷たい笑顔で朝の挨拶を強要してきた。
「お、おはよう、佐々木」
「良かったじゃない。学園一の美人とお付き合いできて」
嫌味たらしく語気を強めた佐々木に対して、僕は何も言い返せなかった。
「怒ってる?」
「何で大塚と藤田の問題に私が怒らないといけないの?」
それもそうだが、佐々木の言葉の節々から薔薇よりも鋭い棘を感じる。何も返す言葉が見当たらない僕に対して、佐々木は先程の冷たい笑みからいつもの真顔に戻ると「でも、ひとつだけ忠告しておくわ」と話を切り出す。
「はじめから終わることが決まっている恋愛にあまり感情を注ぎ込まないことね。そうじゃないと、後味が悪いわよ。特にあなたたち若者にはね」と、まるで世界中の恋愛を経験してきた伝説の遊女みたいな助言を捧げてくれた。明らかに同じ年では出て来ない領域に突入している。
しかしだ。佐々木に忠告されるまでもなく、僕なりに心得ているつもりだ。ただ不安なのは、その心構えが本当に最後まで保つことが出来るのか。佐々木なりに僕の心配をしてくれているのだろうが、こればかりは実際に終焉を迎える時まで分からない。今は成り行きに任せるだけだ。
それから三日が経過した。
藤田先輩との『恋愛ごっこ』は特に何の成果も上げられず今に至る。実際に藤田先輩と一緒にした事と言えば、放課後に佐々木の家に集合して他愛もない会話をするだけだった。健全というよりも知人以上友人未満と言った距離感だろう。付き合っているとは言い難い関係が続いていた。
学校にいる間も学年が違うことから藤田先輩と遭遇する機会は殆どない。休み時間に偶然に廊下ですれ違ったとしても、学園一のマドンナの周囲には常に多くの女子生徒が取り巻いている。そんな藤田先輩の横顔を眺めながら、藤田先輩に憧れる多くの男子生徒の一人として見惚れるフリをした。藤田先輩に至っては僕の存在を視界に入れない徹底ぶりだ――いや、本当に僕の存在に気付いていない可能性もある。
そんな冴えない日々が流れていたある日の放課後に事態は急激に動き始めた。それはいつものように佐々木の家で三人揃ったときの会話から始まった。
「それで歌詞は進んでるの?」と何気なく佐々木が藤田先輩に尋ねると、ファッション雑誌を読んでいた藤田先輩の手がピタリと止まり、あからさまに表情を曇らせる。
「恋愛相手が悪いから一文字も進んでないわよ」と藤田先輩から責任転換の流れ弾が飛んできた。まぁ、実際のところ恋人らしいことは何一つしていないのだから否定できない。それに周囲にバレないという条件が付くと、近場のデートスポットは危険だ。故に行動範囲は限られてしまう。
「困ったわね。このままじゃあ、次の作品が出来ないわ」
佐々木はボヤキながらギターを奏でる。
そんな台詞を聞いて藤田先輩は先程よりも表情を曇らせて、何か考え込むように右上を仰いで目を閉じる。
「それなら三人で何処か出掛ける? 佐々木も一緒に来てよ」と藤田先輩は三人で遠出をする提案を出すが、佐々木は何も言わずに首を横に振る。そして失った右足を軽く叩き「歩くの遅いから、二人に迷惑が掛かるわ」と自虐的に笑った。
そんな佐々木の寂しい笑みを見た瞬間、胸が苦しくなり耐え切れなくなった僕は「大丈夫だよ。僕が肩を貸すから」と声をかけるが佐々木は何か言いたそうに苦笑いを浮かべる。しかし結局何も言わずにギターを奏で続ける。
そんな佐々木を見た藤田先輩は首を左右に何度か振る。僕はまた何か失言をしてしまったのだろうか? 気まずくなった沈黙が広がりかけた時、藤田先輩は何かを諦めたようにため息交じりに「それじゃあ、次の週末にデートしましょうか? どうせ暇でしょ?」と大いなる妥協案を提示してきた。まぁ、今週末は暇だったから断る理由はない。
「まぁ、いいけど」
僕の曖昧な同意がまずかったのか、佐々木も藤田先輩も曇った表情が晴れることはなかった。冷静に考えて、僕たちの関係性は歪になりつつある。佐々木と僕の関係性は何だ? 藤田先輩と僕の関係性は何だ? 他人との関わりについて今までの人生でそんなに本気で考えたことがなかった。僕にとっての佐々木という存在、藤田先輩という存在、最近では僕の心の中で二人の存在感が日増しに大きくなっている。しかし、その感情の正体が恋愛だと純粋に断言できれば、おそらくここまで僕の心は混乱しないだろう。恐らく、恋愛よりも入り組んだ複雑な感情が、僕の脳内のいろんな場所で喧嘩している。
その日は、何とも言いがたい気まずさを抱いたまま解散することとなった。
誰もが憧れる学園一のマドンナとデートができて嬉しいはずだ。それなのに家に帰っても僕の心は晴れないまま、ただただ頭のなかを空っぽにしていた。
「何、ボーっとしてるの?」
母に言われるまで、自分が白米の入った茶碗を持ったまま停止していることに気付かなかった。今日も父親は仕事で遅くなるらしく、母親と二人きりの夕食だ。藤田先輩は今頃あの散らかった台所でご飯を食べているのだろうか? 佐々木もあの殺風景な台所で一人ご飯を食べているのだろうか? なにより、佐々木の両親は何処にいるのだろうか?
「また箸が止まってる。青春は忙しいわね」
母が呆れた様子で溜息を漏らす。
青春か。まったく実感が湧かないが、若さが過ぎ去った頃に僕の青春に対する明確な答えが出るのだろうか?
「ねぇ、母さんが学生の頃は、どうだった?」と興味本位に尋ねた僕の問いに、母は意味ありげな笑みを浮かべ「さあねえ。青春に明確な答えなんてないわよ。でも、一生懸命にもがきなさい。それが若者の使命なのだから」と無責任に言い放った。
その笑み、その台詞、母は既に何かを悟ったに違いない。だが、その何かは教えてくれないようだ。
「人生の先輩は厳しいですね」
「そうよ。自分でもがかないと大人になった時、取り返しが付かないほどの深い樹海へと迷い込むことになるんだからね」
どうやら、人生のカンニングはさせてくれないようだ。でも一体、いつまで、どこまで、もがけばいいのだろうか? もう僕の心の両腕はとっくにパンパンに腫れている。そんな漠然とした不安を抱きながら居間を覗くと父が描いているキャンパスに、青空が描き加えられていた。そんな空の真ん中に大きな入道雲が威張るように描かれ、目が合った僕に何かを訴えているように写る。当然ながら、そこに言葉はない。やはり誰も僕に答えを教えるつもりはないようだ。
食事を済ませ、風呂を済ませた僕はすぐに自室のベッドへと潜った。しかし、まったく眠気が訪れなかった。目を閉じても思い浮かぶ光景は藤田先輩と佐々木の顔ばかり。二人は共に自立を目指している。そんな彼女たちに対して、僕には音楽の才能も経済的な余裕もない。何もしてあげられない。そんな残酷な現実を突き付けられ、悔しくて涙が流れそうになる。しかし、仮に今どんなに涙を流したところで漫画のように都合のいい展開には転がらない。自分から動かなければ現実は何も変わらない。だから、涙は絶対に流さない。そう強く誓い震えながら強く目を閉じて、睡魔を追いかけるように宇宙を走り回る。そんな暗い部屋には時計の針が僕を嘲笑うように鳴り響いていた。チクタク、チクタク。翻訳すると“お前は死ぬ寸前に本当の後悔をするだろう”と僕の脳に誰かが教えてくれた。
土曜日の早い時間ということもあってか、岡山駅の東口は人通りがなく閑散としていた。『晴れの国・おかやま』と自ら名乗るだけあって、空を見上げると雲一つない晴天に恵まれて絶好のデート日和だった。それなのに、僕の心の片隅には魚の骨が刺さったような違和感を抱いていた。待ち合わせ場所の桃太郎像はきょうもどこか遠くを眺めながら、誰かを待っているようだった。そんな桃太郎に親近感を抱いた瞬間だった。
「おまたせ」と馴染のある幼さの残る女性の声が聞こえた。声がした先には白いTシャツにタイトなブルージーンズといったカジュアルな服装の藤田先輩が足早に歩いて来る。
「どうかしら?」と爽やかな笑みを浮かべ、読者モデルさながらのポーズを取ってみせた。そんな藤田先輩から柑橘系の爽やかな香りと藤田先輩の部屋に入ったときに漂っていたラベンダーの香りが入り混じった匂いを嗅いだ途端、僕の心は高揚し自然と鼓動が高鳴り始めた。そんな戸惑いを悟られないように平然を装うように僕もぎこちない笑みを必死に浮かべ「はい、すごく似合っています」と率直に思い浮かんだ言葉をそのまま吐き出した。
「ベタ過ぎる感想ね。つまらないわ」
僕の感想がお気に召さなかった藤田先輩は肩を竦めながら子どものように唇を尖らせて不満な表情を浮かべた。絶対に学校では見せない表情を見た僕は徐々に非日常へと誘われていく感じがした。どうやら、遠出することにテンションが高い様子だ。いつもと違う藤田先輩の態度に僕の調子まで狂ってしまう。
「それじゃあ、行きましょうか」
戸惑う僕に構う事なく藤田先輩は颯爽と駅のなかの切符売り場へ向かう。僕も置いて行かれないように後を追った。
地下に降りて券売機にある時刻表を見上げる。宇野みなと線から終着の宇野駅までの経路を目で追いながら出発の時刻が七時三二分発だという事が分かった。それ以外にも岡山からは様々な路線が入り乱れていて、全国の何処とでも繋がっていそうで少し興奮した。
今度、電車で全く知らない街に行ってみようか。
遠くの方から ピーンポーーン と謎のチャイムが聞こえる。
「このチケットで良いのよね?」
「はい、大丈夫だと思います」
僕も藤田先輩も普段から電車に乗らないから、チケット一枚買うのも一苦労だ。
時刻表の横に設置された時計を見ると七時を過ぎた辺りだった。あと一五分で出発する。
「丁度いい時間ですね」と二人で七番線のプラットホームに向かう。
地下の通路を歩いていても誰ともすれ違う事はなかった。代わりに女子高生の後ろから紫色の不気味な手が伸びている痴漢防止のポスターが『痴漢、アカン!』というベタなキャッチコピーと共に僕等とすれ違った。
「大塚も気を付けなさいよ」と藤田先輩が半笑いで呟く。
「男が痴漢に遭いますかね?」と僕が返す。
「逆よ、逆」
「…しませんよ!」
そんな他愛もない言葉を交わしているうちに七番線のプラットホームに出られる階段まで辿り着く。
「ここよね」
「はい」
階段を昇ると徐々に駅特有の匂いが涼しい風と共に僕等の髪を優しく撫でた。
「まだ人が少ないわね」
「そうですね」
階段を昇り切ってホームを見渡すが、二組の家族連れと思われる乗客だけが電車を待っていた。
「まだ少ないわね。でも、土曜日だから混むのかしらね」
「そうですね。昨日も夕方のニュースで熱心に宣伝してましたしね。恐らく、徐々に人が増えてくるんじゃないですかね」
スピーカーから電子音でアレンジされた童謡・桃太郎がプラットホームに響き渡る。
線路の先を眺めていると遠くの方から銀色の車体に水色のラインがデザインされた電車が入ってきた。
「この電車、見た事ある!」と藤田先輩が嬉しそうにカメラを取り出して写真を撮る。
定位置に着いた電車がゆっくりと停車すると空気が抜けるような音と共にドアが開いた電車特有の年季の入った匂いが懐かしい気持ちにさせた。電車に乗るのは何年振りだろうか。
そんな事を考えながら電車に乗り込むと、やはり僕等と一緒に待っていた家族二組も一緒に乗り込んできた。しかし、それ以外の乗客は居ないようだ。今日は少ないのか? と思ったが、岡山駅は始発駅だ。各駅に停車する毎に乗客は増えてくるのだろう。
「ここに座りましょう」と藤田先輩は窓際の向かい合わせになっている席に座ったので、僕はその正面に座ることにした。
「それで今日はどんなプランなのかしら?」
「プランとは?」
「もしかして何も考えてないの!?」
藤田先輩が目を丸くして驚くものだから、僕も釣られて驚いた。
「流石は大塚ね。ある意味、あなたらしくて逆に尊敬するわ」
そんな侮辱的な言葉で藤田先輩は蔑んだ目で僕を見下す。そして大きな溜息と共に残念そうな表情で何度か首を横に振った。
確かに、僕は初めて訪れる小豆島まで向かう方法を調べる事だけで満足していた。肝心なこの日の予定まで気が回らなかった。
「ゴメンなさい。こういう場合は男の僕が考えるべきでしたね」と僕が反省の弁を述べると藤田先輩は流れる山の景色を眺めながら「性別なんて関係ないわ。ただ、楽しみにしててくれたなら、色々と行きたいところを考えてくれているかなって」と呟いた。その時の藤田先輩の遠くを見つめる目には寂しさが宿っているように見えた。それが余計に僕をやるせない気持ちにさせた。
「まぁ、いいわ。どうせスマホで調べれば色んな情報が出て来るから」と言って藤田先輩はスマホを取り出し、開催中の瀬戸内芸術祭について調べはじめた。僕も同じように自分のスマホで調べることにした。
「小豆島って醤油造りが盛んなんだって。知ってた?」
「初耳です。どうしてなんですかね?」
「さぁ、環境が適しているとか?」
流れる車窓から僅かにだが海が見えてきた。そんな青黒く輝く海を眺めながら自然とポケットの中の骨を握り締めていた。こんな日にまで持ち歩くとは、我ながら骨依存症になっているみたいだ。骨依存症って何だろう…
海が見えてきたという事はもうすぐ目的地に到着する。しかし結局のところ、各駅で乗客は殆ど乗って来なかった。
岡山駅から四五分で宇野駅に到着する。
「意外と早く着いたわね」
電車のドアが開いた瞬間から磯の香りが漂いはじめる。同時に脳内がすぐ近くに海があることを連想させて自然と心が弾む。
「大塚、あれ見て!」
藤田先輩が僕の肩を興奮気味に叩きながら無邪気な笑みで遠くを指す。目を凝らして藤田先輩が指す方角を眺めるとカラフルな魚のオブジェが展示されていた。
走ってオブジェの近くまで向かった藤田先輩は自分のスマホを取り出して様々な角度から魚のオブジェを撮りはじめる。僕も藤田先輩を追ってオブジェの前まで近寄ると、海に捨てられたガラクタで作ったことを説明するプレートが設置されていた。エコと芸術の融合。それが瀬戸内芸術祭のテーマらしい。
それにしても、と僕は周囲を見渡すが、想像していたよりも閑散としてた。
「思ったより少ないわね」と藤田先輩も僕と同じように感じていた。
「そうですね。夕方のニュースだと結構賑わっているって言ってたけど……ここにいても何もないから、ちょっと早いですけどフェリーに乗りますか」
「そうね。行きましょう」と藤田先輩は少し不安そうな表情で呟いた。その瞬間に海岸からフェリーの野太い汽笛が聞こえてきた。その汽笛が懐かしい感情を芽生えさせた。それは何十年も前から汽笛の音が変わることなく宇野港で響き続けているからだろうか。そんな汽笛と同時に、地球が誕生してから一日も休むこと無く打ち寄せる波の音も一緒に聞いていたはずだ。もう記憶から薄れかけるほど幼い頃に僕も一緒に聞いていたはずだ。記憶よりも聴力が懐かしさを訴えているのだろうか。そんな事を思いながら、様々な形の船が往来するフェリー乗り場に向かう。
売店で切符を買ったときには既にフェリーが港に停泊していた。それを見た藤田先輩は「速く乗りましょう!」と子どもみたいに走ってフェリーへと向かう。そんな無邪気さが逆に不気味になってきた。何もなければいいのだが。
内部に入るなり軽油の独特な臭いが充満していた。
「私、フェリー乗るの、初めてかも。すごく広いのね!」
そんな臭いに構う事無く興奮を抑えない藤田先輩はフェリーの内部を興味津々で探索しはじめる。
フェリーの上部デッキまで上がると随分と草臥れた緑色のソファーが出迎えてくれた。僕がフェリーに乗ったのは何年振りだろうか……劣化した記憶を丁寧に読み返すと小学生に上がったくらいまで遡った。まだ世間の仕組みを知らない幼い僕が両親に挟まれながら、今の僕を見つめていた。
『僕の方は心配ないよ。それよりも今は藤田先輩が心配なんだ』と幼い僕に今の僕の不安を吐露したところで、もちろん幼い僕は首を傾げるだけで何も答えてはくれない。そんな不安を抱いたのはおそらく、だだっ広い客室に家族連れが一組しかいなかったからだろう。お母さんに抱っこされた女の子が物珍しそうに小さな売店を眺めていた。そんな売店には真新しい朝刊と子どもが好きそうなお菓子が陳列されている。しかし店員らしき人の姿はない。主を無くした社は終末感を演出している。更に奥へと進むとセピア色に染まったブラウン管テレビが健気にNHKのニュースを流していた。しかしここにも人間はいなかった。昭和が残したノスタルジックな空間が僕の海馬を過去の終着駅へと誘おうとしている。そこで降りれば誰かに会えるだろうか? しかし今はまだその時ではない。
「外部デッキに上がれるみたいですよ。瀬戸内海を一望しませんか?」と藤田先輩を誘うと「上がる!」と満面の笑みを零す藤田先輩が次第に愛おしく思えた。その時に気付いてしまった。
そうか、僕はこれが怖かったんだ。今日のイベントだって藤田先輩が歌詞を書く為に企画された偽りのデートだ。どんなに足掻いたところで、僕が藤田先輩と本当に付き合えるはずなんてない。それなのに、心のどこかで薄っすらと淡い期待を抱いていた。それが怖かったんだ。はじめから終わる事を知っている恋愛と覚悟していたのに、どうやら、覚悟が足りていないようだ。
磯の匂いとまだ冷たさを残した潮風が漂う外部デッキに出ると真っ青に塗装された床面と見事な青い空が一致し、辺り一面が混ざり気のない純粋で残酷な青で輝いていた。今の僕の心とは真逆の色をしていて清々しくも恐ろしく思えた。
「私たちの町はあっちの方かしら?」と藤田先輩が指差す方向を見ると、馴染みのある街並みが小さく見えていた。特に僕らが通う校舎は特徴的な造りをしているおかげですぐに分かった。
「そうですね。あの辺が佐々木の家ですかね?」と僕も藤田先輩と同じように指を差すと藤田先輩の無邪気な笑顔から僅かに陰りが零れた。
「曲作りしてるのかしらね」と寂しそうに呟く。そういえば、藤田先輩は今回の瀬戸内芸術祭に佐々木も誘っていた。もしも義足の佐々木が一緒だったら駅からフェリーに乗るまでの道中、どれだけの困難が待ち受けていたのだろうか? 普通の階段ですら苦労するのに、フェリーに乗るまでの複雑な設計をした梯子やスロープ、この外部デッキまでの小さな階段も、佐々木にとっては困難だったのかもしれない。その間、僕はどれだけ佐々木を手助けできただろうか? まったく自信がない。強引にでも佐々木を手助けすることができるだろうか? おそらく、躊躇してしまう。いまだに、僕は佐々木との適切な距離感を掴めないでいる。その弱さが今、佐々木がこの場所にいない理由なのかもしれない。僕は本当に弱い。だから「この時間はまだ寝ているかもしれませんね」と重くなりそうな空気を変えたくて、それとなく無難な返事をしてしまう。
「そうね。まだ早いものね」
結局、僕と藤田先輩の間に漂う重い空気が消える事はなかった。そんな状況に構う事無く重厚な汽笛を宇野港に響き渡らせ、僕たちを乗せたフェリーはゆっくりと動き出す。ゆっくりと陸から離れて徐々に沖へと向かう。本州とはしばしの別れだ。
航海中の藤田先輩はゆっくりと流れる瀬戸内海に浮かぶ島々の景色を黙って眺めていた。それは僕との会話に飽きたのか、誰かのことを思ってなのか、或いは単純に眠たくなっただけなのかもしれない。何を話すでもなく、ゆっくりと時間が流れるのを見送っていると次第に眠くなってきた。今朝は随分と早く起きたせいで睡魔が訪れても文句は言えない。僕は自分の瞼に任せて目を閉じた。
その時だった。
ポケットに忍ばせた骨が、まるで携帯電話のマナーモードみたいに小刻みに振動し出す。
驚きながらポケットに手を突っ込んで骨を触ってみると、やはり骨が震えていた。
「ちょっとトイレ」と言って立ち上がると、藤田先輩を残して、デッキの出入口付近にあるトイレに小走りで向かった。
「いってらっしゃい」と生返事をする藤田先輩は何も気付いていないようだ。
幸いにもトイレに誰も入っていなかった。個室に入って鍵を閉める。そして一呼吸置いて未だに震え続ける骨を取り出すと、骨の両先端の丸み部分が赤紫に輝いていた。恐る恐る光っている部分を指先で触れるが熱はない。匂いも無い。しかし振動は治まらない。
参ったな。骨に取扱説明書なんて存在しない。或いは、これは骨の形状をした古代兵器なのかもしれない。怖くなってきた、途方に暮れながら光り続けている先端部分を眺めていると、何か投影されていることに気付く。目を凝らして光の部分を覗いてみると今まさにフェリーに乗っている僕の姿が映っていた。デッキに座っていた先ほどの光景と似ているが、僕と一緒に居る相手が藤田先輩ではなかった。同じ歳くらいの女性に見えるが見覚えがない。このまま光を見ていたかったが、次第に骨の振動が鎮まり出し、それに比例するように輝きも徐々に弱まり、最後には何事もなかったかのように普段の骨へと戻った。光の中で投影されていた映像も見えなくなってしまった。何だったんだ? まるで赤子みたいに何の脈絡もなく気紛れに泣いては疲れて眠るような骨だ。このまま成長したりしないだろうな。
そんな不安を抱きつつも骨を再びポケットに忍ばせると、トイレに来たついでに用を済ませて藤田先輩が待つ席まで戻った。
宇野港を出航して一時間弱で小豆島の土庄港に到着した。
フェリー乗り場では、自分たちが乗ってきた以外のフェリーが何艘も停泊していた。
「それで、これから何処に行けばいいのか決めた?」
今まで黙って瀬戸内海の景色を眺めていた藤田先輩はフェリーから降りると同時に再び興奮を取り戻した様子で、周囲を見渡しながら僕に尋ねる。流石に小豆島まで来ると多くの観光客が様々なフェリーから降り立ちはじめていて、港の待合室やお土産売り場では一定の賑わいを見せていた。
「とりあえず、バス乗り場に行きましょうか」
スマホで小豆島のガイドラインを調べた結果、どうやら移動手段はバスを利用することが基本らしい。
スマホの指示に従い、僕は藤田先輩とバスに乗り、様々な芸術作品が展示されているスポットを見て廻ることにした。
はじめに訪れた場所では古民家を再利用し、紙風船を無数に使って作り上げたオブジェが展示されていた。その近くには殺風景な小さな港があり、その中でポツンと佇む大きな黄色いカボチャのオブジェが置かれていた。
「あれ、なんか可愛い!」
藤田先輩はテンションを上げながら黄色いカボチャに駆け寄る。その時の笑顔が逆光になり、眩しくてはっきりと見えなかった。ただ、その時の藤田先輩の姿がモネの描いたパラソルを差す女と重なり、神々しくも切なく映った。
「何やってるの? 大塚もおいで!」
大きく手招きする藤田先輩に見惚れていると『はじめから終わることが決まっている恋愛にあまり感情を注ぎ込まないことね。そうじゃないと、後味が悪いわよ』という佐々木の忠告が警報音のように心の中で鳴り響く。
これが本当の恋人同士だったら至福の瞬間を味わえていたのだろうか。そもそも恋人という存在について僕はまだ何も知らない。だから想像の領域を越えられない虚しさが心を圧し潰そうとしている。黄色いカボチャの前で自撮りをしている藤田先輩は何を思っているのだろうか…… 結局のところ、この世界のすべての謎を解き明かせないように、藤田裕子という世界を完全に理解することなんてできない。だからと言って諦めてしまっては何も共有できない。人間なんて矛盾だらけの生き物だ。だから愛おしくなるのだろうか。
その後も僕たちは銭湯を改装した場所に和紙で作った羊の形をしたアートや元は商店だった建物を利用して、お化け屋敷のような怪しい雰囲気の中で上映する映像アートなど様々な場所で色んな作品を鑑賞した。その最中でも藤田先輩は必要以上にスマホを使って様々な作品を写真に収めていった。
「随分と写真を撮ってますね?」
「今度の動画で色んな写真も載せたいらしいから」
「佐々木のお願いですか?」
「そう。何かに使えるかもって」
僕に内緒で佐々木は藤田先輩に写真のお願いをしていた。今日の誘いを断ったことに対して気を遣ったのだろうか。或いは本当に今度の動画で写真を使用したいのか。真相は分からないが、事実として佐々木はこの場所にいない。その事実に後ろめたさを感じつつも、今度は無理にでも連れて来ようか。実際にそんな事などできもしない癖に、強がって見せたい稚拙な自分が憎たらしい顔を出す。それでも写真の依頼は佐々木なりに『気を遣うな』というメッセージのように思えて、少し気持ちが楽になった。
気が付けば太陽が傾きはじめ、僕と藤田先輩は浜辺に設置されてた白いベンチに座って海を眺めていた。周囲には誰も居ない。お陰で潮騒の音色がありありと聞こえる。白いベンチのすぐ横には赤い紙風車が大量に設置されたアートがコンクリートの防波堤いっぱいに展示されている。エメラルドに透き通る海の中ではヒトデやワカメ、どこからか漂流してきた小枝たちが、ひとつの大きな絵を描いていた。これも一つのアート、なんて素人が評論家振るものまた瀬戸内芸術祭の楽しみ方の一つなのだろう。
「やっと笑った。楽しんでいるみたいね」
自然と緩んだ僕の顔を見て藤田先輩が悪戯っぽく笑う。確かに、芸術なんて興味がなかったはずなのに随分と楽しんでいる自分がいた。それはおそらく、佐々木に対する罪悪感が緩和されたからだろう。そんな佐々木の気遣いに助けられたことを認めた僕は、佐々木の優しさに甘えてしまったようで落ち込んでしまう。
「また暗い顔になる」
藤田先輩にまで、僕の心が見透かされている程に感情がそのまま顔に出てしまっているらしい。
海は相変わらず穏やかで、世界のすべてが平和に包まれているような錯覚に陥りそうになる。でも、肝心の僕自身は一体、何の為に生まれてきたのか? とか、何か才能は持っているのか? とか、どうしようもない個人的な問題で悩んでいる。そこに世界平和なんて言葉は一ミリもなかった。
そんな情けない僕を見て藤田先輩は呆れた表情で肩を竦めた。そして慰めるでも、励ますでもなく、「ねぇ……大塚、最後に恋人らしいことでもしようか?」と言いながら、ため息交じりに立ち上がる。
そのときの藤田先輩は不安定な将来に悲壮感を漂わせているような悲しい表情を浮かべていた。そんな藤田先輩に釣られて僕の心のなかにも冷たい不協和音が響き渡る。
不意に吹く潮風が大量の紙風車を一斉に回転させる。それを合図に藤田先輩はまだ座っている僕の正面に立ち、腰を曲げるとそのまま薄紅色をした小さな唇を僕に近づけた。そして微かに僕の口先に藤田先輩の唇が触れる。ファーストキスと呼ぶにはあまりにも曖昧な感覚だったが、確かに僕の唇の先が藤田先輩の唇を捉えた。
動揺する僕とは対照的に、藤田先輩はその辺の電信柱にでもキスしたような醒めた顔でため息をつき「やっぱり駄目ね」と呟いた。
突然の展開に理解が追い付いていない僕を余所に藤田先輩は海よりも遥か先に佇む紫色に輝く地平線を眺めながら話しはじめる。
「あのね。これは佐々木に秘密にしておいて欲しいことなんだけど」と前置きした藤田先輩はゆっくりと浜辺へと向かい歩き出す。今になって僕の心臓が激しく脈を打ち出しはじめたが、悟られないように平然を装いながら慌てて立ち上がると藤田先輩の後を追う。
しばらく歩き続けるが、前置きを残したまま話の続きを切り出さない。そんな藤田先輩の顔を覗くと夕陽に照らされて赤く染められ、不安を募らせた子兎のように瞳を潤ませていた。家族のことか、将来のことか、それ以外のことか、どちらに転んでも深刻な内容であることには変わりなさそうだ。そんな雰囲気に自然と僕は身構えていた。
「実は私ね、佐々木のことが好きなの」
「はい」
必要以上に身構えていたせいか、藤田先輩が発した言葉があまりにも普通過ぎて僕は気の抜けたような間抜けな返事が漏れた。
「はい。じゃなくて、それだけ?」
藤田先輩のなかで僕の反応は想定外だったらしく眉間に皺を寄せて僕を睨みつけながら戸惑いはじめる。そんな藤田先輩の戸惑いに釣られて僕も同様に戸惑う。
「いや、友人のことが好きなのは当たり前じゃないですか?」と僕の言い訳に似た同調に藤田先輩は今までの悲壮感を漂わせた顔が嘘だったみたいに、小さく吹き出して大きく笑い出す。
「はっはっはっ……そうよね。お子様の大塚なら、そう解釈するわよね」
馬鹿にされた気がして、今度は僕の方が眉間に皺を寄せた。笑い疲れたのか、藤田先輩は瞳に溜めていた涙を指先で涙を拭いながら「ゴメン、言葉不足だったわ。実は私ね、レズビアンなの」と明るい口調で告げられた。
「えっ?」
僕の思考は完全に停止してしまった。
レズビアン。
女性同性愛者。
『佐々木のことが好きなの』
今までの藤田先輩が発した言葉を丁寧に思い返し照合する。一旦は思考を停止した脳が次第に藤田先輩の言いたいことを理解しはじめ、最終的には完全に理解し終えた。
その直後に「あっ!」と思わず声を漏らしてしまった。
「やっと理解してくれた?」
「はい」
藤田先輩に馬鹿にさるのも無理はない。どうして、僕はこんなにもお子様なんだ。我ながら情けなくて恥ずかしい。藤田先輩がレズビアンだという選択肢がまったくなかった。想定外過ぎた。
「さっき、あなたとキスした瞬間に改めて確信したわ。やっぱり私は男の人を性の対象として見られないみたい」
「それじゃあ、佐々木のことが?」
「そうよ、友達としてじゃなくて。性的な意味で好きなの。でも、おそらく佐々木はストレートだから私のことは友人として接しているだけだと思う。でも、今はそれでいいの」
同時に、藤田先輩が彼氏を作らない理由も理解した。あの時、藤田先輩を怒らせてしまった稚拙な言葉の残酷さを今になって思い知らされる。単に家庭の事情で男性不信になったのだと決めつけていたが、その考えも浅はかだった。どうやら今の僕にはまだ足りないものが多すぎるようだ。それを痛感させられた瞬間に人生の奥深さに心が折られそうになる。藤田先輩は何も悪くないはずなのに、人知れず孤独を抱えて生きてきたのだろう。
「どうして、そんな重大な秘密を僕なんかに教えてくれたんですか?」
「冷静になって分かったの。あの時、大塚に怒ったじゃない?」
「はい」
「あれは、あなたに対して嫉妬してたの。私はこんなにも佐々木のことが好きなのに、同性というだけで報われない。それに比べて大塚は異性というだけで可能性がある。努力しても絶対に埋められない不条理。どうしようもない怒りからあなたに八つ当たりしちゃった。あの時は、ごめんなさい」
「謝らないでください。本当に悪かったのは僕なので」
藤田先輩に謝罪された瞬間に悔しさが込み上げてきた。それはおそらく、藤田先輩の謝罪を受け入れてしまった瞬間に、僕は本物の愚か者に成り下がってしまう気がしたからだ。
「どうして、大塚が泣いてるの?」と藤田先輩に言われるまで自分が泣いていることに全く気付かなった。慌てて涙を拭うが、それでも追い付かないほどに涙が大量に溢れて止まらない。
「どうしよう、全然止まらない」
「大塚って、実は優しいのね」と言いながら、藤田先輩は僕が泣き止むまで優しく抱きしめてくれた。
でも藤田先輩は誤解している。
『僕は優しくなんかない。ただ弱いだけの臆病者なんです。だから、誰も傷付けたくないし、傷付けられたくもない。だから、何も受け入れないで、何事もなかったように受け流すだけの人生を歩んできたんです。ただ、そのツケが今になって大きな代償として押し寄せてきただけなんです。謂わば、これは今までサボってきた報いのようなものなんです』と心の中で懺悔しても、聞いてくれるのは心の神だけだ。しかし、僕の心の中に神など居ない。故に、ただの心の妄言に過ぎなかった。
僕の涙が止まったのは海が太陽を完全に呑み込む少し前の頃。飽きもせず、また何者かが夜を創り出す準備を始めていた。オレンジ色に染まり切った海と朱色に染められた藤田先輩と何処にも逃げられない僕の心が悲しいくらいに似合っている。
「藤田先輩がレズビアンだということを知っている人は?」
「誰もいないわ。だから、これは私と大塚だけの秘密ね」
思いもよらぬ新たな秘密を共有することになってしまった。しかも、今回は佐々木にも明かせない二人だけの秘密。同時に藤田先輩はまだ佐々木に告白をしていないということか。それは、そうか。どうもこの秘密は大きなお世話で不用意な行動を取ってしまうと致命的な失敗に繋がりそうな難題のようだ。ただでさえ不器用な僕にできることはないだろう。少なくとも、今の僕には。
それから太陽が沈み切るまで藤田先輩は穏やかな瀬戸内海をずっと眺めていた。まるでこれが、見納めだといわんばかりに。
僕は僕で何も話せない雰囲気に押し殺されて永遠に繰り返す波を数えるふりをしながら、藤田先輩にバレないようにずっと綺麗な横顔を見ていた。
遠くの方でトンビの鳴き声が聞こえた。まる世界の終わりに怯えるような甲高い叫び声だった。それは次第に僕の心まで不安を煽ってくる鳴き声だった。
「それじゃあ、帰りましょうか」
何か納得したように深く頷いた藤田先輩は、しっとりとした言葉で締めくくる。ここで約数日間に及んだ僕と藤田先輩による恋愛ごっこは終焉を迎えた。
僕と藤田先輩を仮縫いで結び付いていた心細い赤い糸は呆気なく解れ、帰路のフェリーでも電車の中でも言葉を交わすことはなかった。まるで深海よりも崇高で暗黒な沈黙だ。
そとはすっかりと暗くなっていて、車窓から見える瀬戸大橋の所々で航空障害灯が妖しく点滅し続けている。その下に広がる大小の様々な形をした島々も次第に眠り支度をするように暗く縮こまっていた。頭のなかは当然のように今も混乱している。瀬戸内芸術祭の作品の数々と藤田先輩の告白が入り混じり、まるで現実が何処かに失踪しているみたいだ。流れる車窓は次第に見慣れた景色に移り変わり、僕の視界だけが徐々に現実へと引き戻される。その頃には様々な事を考えすぎて頭が痛くなっていた。
岡山駅に到着し改札口を出ると、早朝よりも乗客が往来していた。いつもの岡山駅に安堵したが、その途端に「サヨナラ」という何の感情も色もない言葉で藤田先輩は去ってしまった。
僕も何か返事しようと必死で言葉を探すが、藤田先輩の後ろ姿は、今朝とはまったくの別人のように映り、僕は言葉探しを諦めてしまった。それは藤田先輩がレズビアンだと知ったからなのだろうか? それとも、もう恋愛ごっこが終わったからだろうか? そんな漠然とした不安を抱いたまま僕も家に帰った。
家に到着したのは午後九時を回った辺りだった。
その後の記憶はまったくなく、いつの間にか風呂に入り、いつの間にか晩飯を食べ終えていた。僕の頭のなかはただただ藤田先輩のことでいっぱいだった。
ずっと動揺していたせいで、あの時の藤田先輩がどんな表情をしていたのか思い出せない。本当は藤田先輩の方が泣きたいはずだったかもしれないのに、僕の方が泣いてしまった。今になって弱い自分に腹が立ってきた。
どうして、こんな事になってしまったのだろう。佐々木と仲良くならなければ、藤田先輩とも親しい関係にならなっただろう。それじゃあ、もう一度人生をやり直したら、佐々木に話しかけなかっただろうか? それはない。むしろ、何度繰り返しても僕は佐々木と好きな音楽の話をして仲良くなるだろうし、あの時、佐々木と藤田先輩の秘密を盗み聞きしていただろう。自分の人生なのに、理屈よりも衝動が勝るだろう。自分で選択しているようで、実は誰かに決められているのかもしれない。だったら、この状況を後悔しているのか? それもない。例え、今の状況に陥るとあらかじめ分かっていても、それでも僕は今の人生を選ぶはずだ。そこまで理解していれば大丈夫だ。人生は考えれば考えるほど複雑になり迷子になってしまう。だから、余計な事は考えるな。なるべくシンプルに。できればポジティブに。自分が今やるべきことと、やらなければいけないことが重ね合わさったことだけをすればいい。そうすれば、また新しい難題にぶつかって悩むんだろう。その繰り返しだ。それが人生だ……と、一七歳の若僧が人生のすべてを分かったような張りぼての結論を出したところで、そんな結論に何の保障もないことも知っている。そう、人生に何の保障もない。だったら、今やりたいこと、やらなければいけないことは何だ? 現実から目を背けないこと。佐々木と藤田先輩を僕のできる限り支えてあげたい。それを彼女たちが望むのであれば。
そう決意した瞬間、眠気が僕の身体を優しく包み込んできた。目を閉じたら、佐々木の顔が思い浮かんだ。早く佐々木に会いたくなる。あわよくば藤田先輩の佐々木に対する秘めた気持ちを伝えたいが、それは僕の役割ではない。だから、今は適切な距離感で見守ろう。決して、誰もバッドエンドにならないように。
いつにもなく長く感じた週末は全て佐々木と藤田先輩の顔で埋め尽くされていた。部屋の時計を睨みながら早く休日が終えることを願ったのは、恐らく人生で初めての経験だ。
そんな逸る思いが抑えきれなかった僕はいつもより三十分も早く教室に入ったが「おはよう」といつもの佐々木の挨拶が聞こえた。
「おはよう」
流石に今日ばかりは僕の方が早いと決め込んでいただけに、佐々木から挨拶されただけで少し驚いた。
気を取り直して、自分の席に向かう。早く佐々木に藤田先輩と行った瀬戸内芸術祭のことについて話したかった。
席に着いてカバンを机の横に掛けると佐々木は浮かない表情でスマホの画面を見るでもなく眺めていた。
「何を見ているの?」
「あぁ、藤田の詩よ。昨日の夜にメールが届いたわ」
「昨日!? 随分と早いな」
藤田先輩とは土曜日の夜に別れた。だから、それから書き始めても日曜日の夜にはできたことになる。想像以上に速く完成していたことに驚きを隠せなかった。
「ちょっと読ませてよ」と興奮気味に要望したが「ダメ。藤田から大塚には絶対に見せないでって言われてるから」と強く却下された。どうせ曲が完成してインターネットに公開するんだから、いずれ分かるだろうに…… 仲間外れにされた気がして少し寂しくなった。
「それよりも聞いたわよ」
「何を?」
「恋愛ごっこは無事に終えたらしいわね」
「まぁね」
「寂しい?」と心配そうな表情で佐々木が尋ねてきた。『はじめから終わることが決まっている恋愛にあまり感情を注ぎ込まないことね。そうじゃないと、後味が悪いわよ』と忠告していた佐々木の予想は悔しさを通り越して、清々しいまでに当たっていた。確かに後味が悪すぎる。ただ改めて今の心境を自分自身に問い掛けてみた。しかし正直なところ、どんな感情なのか自分でも上手く表現できない。それくらい一言では言い表せられない複雑な感情が渦巻いている。それでも一つだけはっきりとしたことがある。
「まぁ、いい経験にはなったよ。今度はちゃんとした恋愛がしたいと思えるほどにはね」
そんな僕の言葉を聞いた佐々木は深刻な問題から解放されたような安堵の表情を浮かべ、今まで見たことのない優しい笑みを浮かべた。そんな佐々木の眩しい笑みから察するに藤田先輩は佐々木への想いをまだ秘めているようだ。そんな切ない感情に触れた瞬間、無性に泣きたくなった。しかし、ここは僕が泣く場面ではない。
「それじゃあ、このポエムを歌詞に変えつつ、作曲をはじめますか」と言った佐々木の瞳には強い決意が宿っていた。僕は喉まで出掛かった藤田先輩の気持ちを無理に呑み込んだ。同時に、藤田先輩がどうすれば幸せになれるのかと考えてみた。しかしというか、やはりというか、何も分からないままだ。それはおそらく答えが十人十色で、明確な答えなんて何処にも存在しないからだ。だったら諦める? とんでもない! 寧ろ、逆だ! 僕は藤田先輩が納得できるまで支える。そうやって藤田先輩の事を考えていると早く藤田先輩に会いたくなってきた。そろそろ学校に着く時間だろうか。今日のうちに校内で偶然にすれ違うだけでも良いから一目でも見たかったのに………
昼休みになり、食堂で昼食を済ませた帰り道。何やら廊下がいつも以上に騒々しかった。女子生徒の何人かが驚いた表情で立ち話をしている。それも廊下に何グループも群がっていた。何やら良くないことが学校で起きたようだ。そんな光景が気になりつつも教室に戻った。佐々木も既に昼食を終えていたようで、今はスマホ画面を見ながら溜息を付いていた。
「何かあったのかな? 女子たちが廊下で立ち話してたんだけど」と僕は軽い気持ちで佐々木に尋ねたものだから、心の準備というものが全く出来ていなかった。
「その様子だと、やっぱり何も言わなかったのね」
思わせぶりな台詞と複雑な表情を浮かべ、机に頬杖ついた佐々木は僕から目を逸らして雲一つない青空に視線を向けながら告げる。
「藤田は昨日付で転校したのよ。東京にね」
「えっ?」
人生で初めて絶句をした。本当に人間が絶句すると頭のなかが真っ白になるらしい。
藤田先輩が東京に行ってしまった。
「嘘だろ?」
「本当よ」
僕の脳内は一瞬で、藤田先輩の散らかった部屋を思い出させる。あのごみが散乱した部屋にもう藤田先輩はいない。それは良かったことなのか? いや、まだ俄かに信じがたい。そもそも藤田先輩はどうして東京に行ってしまったのだろうか?
「モデルを目指すんですって。初めて聞かされたときは驚きよりも納得したわ。でも、もっと早く教えて欲しかったわ」
どうやら佐々木も最近になって聞かされた様子だ。そうなると知っていたのは学校の関係者と家族だけか。思い返せば、藤田先輩はよくファッション雑誌を読んでいた。しかも何枚もの付箋を貼るほど熱心に読んでいた。それはモデルになる為の勉強をしていたということだったのだろうか。
「大塚には自分から伝えるって言ってたから」
申し訳なさそうな表情をする佐々木だったが、この状況下において悪い人間など誰もいない。そう、誰もいないはずなのに、誰かを責めずにはいられないこの幼稚な苛立ちをどう治めればいいだろうかと身体が震えると同時に海をずっと眺めていた朱色の藤田先輩が脳裏を過る。あの時の藤田先輩は何を考えていたのだろうか。海を眺めていたようで、実はその先の不確定で不安に満ちた未来を眺めていたのだろうか。
佐々木の今の様子から察するに、やはり藤田先輩は佐々木に告白していないのようだ。佐々木の言葉から、そのことについては何も触れてこない。或いは、告白したけど、あまりにもセンシティブな事柄だけに僕に言わないでいるのだろうか。どちらにしても、もう藤田先輩に会えない事実は揺るがない。
それからの僕の心は藤田先輩以上にどこか遠くへ行ってしまったようで、何をするにも上の空だった。藤田先輩が生活していたあの散らかった部屋は、藤田先輩の父親だけが住んでいるのだろうか? 佐々木への恋心を秘めたまま、藤田先輩は何を思って東京で生活しているのだろうか? そんな事ばかり考えてしまう日々。そして思い浮かぶ藤田先輩の笑顔が薄れている気がして、必死で瀬戸内芸術祭の日に刻まれた記憶をあの時の潮騒と共に必死で繋ぎ止めることに専念する日々だった。
それから三週間が経ち『恋愛ごっこ』というタイトルの動画が公開された。
今回の作品に僕はまったく関与させてもらえなかった。それも藤田先輩の依頼なのかは分からないが、不思議と疎外感はなかった。むしろ、藤田先輩のことが頭から離れない僕が戦力にならないことは明白だったから逆に助かった。
夜九時を過ぎた辺り、自室で一人になった僕は無気力に包まれた身体をベッドに投げ出して公開された動画を再生する。
アコースティックギターの優しい音色と共に僕と一緒に行った時に写した瀬戸内芸術祭の写真が流れるように映し出される。
突然、人を好きになるのは 心に四季があるから
ちょっと歪な冬だけど 私のお気に入り
誰にも言えない恋 まだ雪のなかで耐えて
いつの日にか 春が訪れる日を待ってる
今は盲目の妄想だらけの恋愛ごっこ
いつの日か 美しい世界に あなたと二人で抜け出し
誰にも遠慮なく 季節巡って
誘惑の夏で死にたいと叫ぶ
そんな夢を見たのは よく晴れた日曜の朝
二度寝しても二度と見えない夢だと
心のどこかで怯えている日々…
あの日、訪れた瀬戸内芸術祭の景色が流れては消えて行く。そんな切ない動画を見ているとあの時の記憶が鮮明に蘇った。まだ一カ月も経っていないのに随分と昔のように思えて切なくて怖くて僕の身体は訳も分からず震え出す。曲が終わるころには涙を必死に堪えている。何故だか分からないが、ここで泣いてしまったら負けてしまう気がした。誰に対して負けてしまうのだろう…… 佐々木に対して? それとも藤田先輩に対して? いや、おそらく自分自身に対してだろう。いつだってそうだ。本当の敵は自分のなかにいるのに、本当の味方も自分しかいない。人間とは何とも矛盾だらけの存在だ。しかし、そんな矛盾さえ呑み込んで生きて行かなければならない。それが人間として生まれた罪なのだから。
どうしようもないことばかりで世界は今日も廻っている。だから、せめて今夜は好きな歌を聴きながら眠ろう――
結局、眠れないまま朝の光を浴びた。意識を朦朧とさせながらいつものように登校する。そんな不安定な状態で席に座っているものだから、佐々木の存在も忘れてしまっていた。
「恋も季節と同じで移り変わるのよ。いつまでも春は続かない。もちろん、冬のままというわけでもない。大塚、あなたの心は今どの季節を巡っているののかしら?」
不意に問いかけられた佐々木の言葉が宛もなく宙を彷徨う。抜け殻になった今の僕には明治初期の抒情詩人みたいな台詞にしか聞こえない。
「新曲の歌詞みたい」
「あら、そう? 大塚の心に響いたのなら、今度の作品で使おうかしら」
「僕を実験台にするなよ」
緊張の糸が切れたように、思わず口元と肩が和らいだ。
「やっと笑った。藤田が転校してからずっと暗かったから」
結局、僕は藤田先輩のことを考えているようで、自分自身の事しか考えていなかったようだ。だから、いつも傍で心配してくれている佐々木という大切な存在を忘れてしまっていた。なんとも情けない、弱い男だ。だから僕はまだまだ子どもなのだろう。どこかに早く大人になれる薬は売っていないだろうか?
「青春は残酷ね」
まるで僕の気持ちを見透かしているように佐々木は悪戯っぽく微笑んだ。その表情があの時の藤田先輩に似ている気がして愛おしく思えた。その瞬間、長い梅雨雲に覆われていた僕の心に一筋の光が射した気がした。自然と肩の力が抜けたと同時に眠気がやってきて大きな欠伸が思わず漏れてきた。そんな間抜けな僕を見て、頃合いとばかりに一度だけ頷いた佐々木が教えてくれた。
「藤田ね、もう芸能事務所と契約することが決まったらしいわ。凄いわね芸能人なんて。なんだか、ずっと遠くに行かれた気がするわ」と佐々木は笑みを零したが、その笑みの中には確かな寂しさが滲み出ていた。
「それに、これから動画作成はどうしようかしら。藤田が居なくなったから、一番の売りが失われちゃった」と佐々木は頭を切り替えるように焦り始める。ただ、その愚痴も勢いは弱く、藤田先輩が遠くに行った寂しさを紛らわすまでには至らなかったようだ。
藤田先輩の真意は分からないけれど、先輩なりに勇気を出して一歩踏み出したことは事実だ。それに佐々木だって自分で作詞・作曲をして自分を表現している。それに比べて僕は何の行動もできていない。一歩踏み出そうにも、どちらに向かって踏み出せばいいのかさえ分からない。ならば、まずは進むべき方向を見つけよう。そのために青春は存在しているのだから…… 限りある時間を有効活用するには、たくさん挑んでたくさん失敗するしかないようだ。
窓の外は今日も清々しく憎たらしい青ばかりで染められている。世間の正体を何も知らないという意味では今の僕とお揃いだ。
「何、浸っているの? あなたにも宿題があるわよ」
「宿題?」
首を傾げる僕のポケットが震える。徐にポケットからスマホを取り出すと、佐々木からメールが届いていた。
「これは?」
「開いてみて」
佐々木に言われるがまま届いたばかりのメールを開くと『作詞、よろしく』と一文だけ添えられ、音楽ファイルが添付されていた。
「僕にも作詞しろと?」
「焦らなくてもいいわ」とほほ笑んだ後に「ただし、あなたが歌にしたいと思った瞬間が訪れたら、絶対にその瞬間を逃さないで。その時のあなたが納得できる言葉で作詞してほしい」としっかりと要望された。
たくさん挑んで失敗するしかない。つい先ほど、自分に言い聞かせた心の言葉が再び響き渡る。切欠をくれた佐々木に感謝しつつも、未知なる作詞活動に怯えている自分もいる。
怯えるな、自分。文字なんて義務教育を終えた人間ならば誰にでも書けるだろ。上手くかっこよく書こうなんて思うな。ただ、自分が正しいと思う言葉を探し求めればいい。
「分かった。自信はないけど、やってみたい」
そんな僕の頼りない承諾に佐々木は優しく微笑みながら「いつもでいいから完成した瞬間にメールしてね」と言った。
この日を境に、僕と詞との共同生活がはじまった。

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