――二〇一三年 四月。
テレビを観ていたはずが、いつの間にか寝ていたようだ。随分と変な夢を見ていた気がする。しかし、どんな内容だったかは既に思い出せない。
未だに流れるテレビの中では東日本大震災から二年が経った現状を報じていた。未だに復興は愚か、瓦礫の処理さえ進んでいない。行方不明者の捜索や死者数の把握も満足に出来ていない現場の惨状を語っていた。そんなテレビ画面の左上に4:30と表示されていた。
もう一度寝るには中途半端な時間だ。しかし、このままずっと起きていると確実に授業中は寝てしまうだろう。そんな事を思いながら手元にあったスマートフォンを手に取り、画面を覗き込むとオススメ動画が表示されていた。いつも様々な音楽関係のチャンネルを視聴しているせいか、最近はマイナーな音楽関係の動画が頻繁に表示されるようになっていた。そのオススメ動画のサムネイルには青いカーテンに小さなタンスが映るごく一般的な部屋が映っていた。あまり注目を集められそうにないサムネイル画像だ。アマチュアの歌手か?
動画のタイトルは三月、六月、一一月、涙(オリジナル楽曲) 随分と変わった曲名に少し心が惹かれた。
未だに流れるテレビを消して動画の再生ボタンをタップすると、画面の中に現れた彼女はエキゾチックな目元に鼻筋、絹のような細やかで儚い亜麻色の髪が僅かに揺らしていた。見る者を一瞬にして惹きつける。照明が不十分なのか、画面全体が少し暗く感じるが、それでも彼女の美貌ははっきりと分かる。
カメラ目線で一度だけ小さく頷くような仕草をした彼女は机の上に置かれているスタンドマイクに顔を寄せて目を閉じる。すると、懐かしくも優しいフォークギターのアルペジオが流れ出し、その落ち着いたリズムに合わせて彼女の首が揺れ、そっと口を開くと幼さを残しつつも芯の通った声が僕の耳を染め出す…
水のないプールで泳ぐみたいに ただもがく日々
前に進んでいる保証なんてどこにもない
でも一つだけ確かなことは 今も生きているってこと
慰めは記念写真が残ってなかったこと
不幸だなんて誰かが決めた基準でしかない
私は私でそれなりに過ごしてるから心配しないでね
弥生の空は今にも泣き出しそうな
灰色に覆われて今の私みたいに震えていた
その時の夕陽には出会えなかったけど
私の代わりに泣いてくれたのかな
まだ曲には続きがありそうだったのに、動画は唐突に終わってしまった。明らかに未完成であることは素人の自分でも分かる。それでも心に沁みるいい曲だと素直に感じた。
同時にそんな彼女に歌声に対して、僕は心の何処かで嫉妬に似た負の感情が芽生えつつあった。別に僕は歌手になりたい訳ではないのに。どうして、このような感情が湧いてしまったのだろうか。
困惑する感情に追い討ちを掛けるように全く異なる疑惑を抱く。それは画面に映るこの女性…… 初めは美貌に釣られて特に何も思わなかったが、今になって違和感を抱き出す。どうも、僕は彼女に既視感を覚えていた。恐らく同じ学校に通う女子生徒に似ているからだろう。もちろん、他人の空似かもしれないが、動画を観れば観るほど似ている気がする。
再生数はまだ400回程度。公開日が3時間前という事を考慮するとまずまず観られているのだろうか。チャンネル登録者数は21人。試しに過去の動画を探すが、この『三月、六月、一一月、涙』以外の関連動画は見つからなかった。とりあえず、チャンネル登録をしてスマホをベッドの上に置いた。
沈黙を裂くように遠くの方から白鷺の鳴き声が聞こえた。
結局、一睡に出来ずに6時半が過ぎた。重い身体を無理に起き上がらせて一階に降りると台所からビートルズが流れていた。それは物心が付いた頃からの我が家の習慣で、既に自分の脳内では曲名を当てることが日課となっている。今朝はノルウェーの森だ。爽やかな朝に深い異国の森林を散歩しているような曲とは対照的に、何処にでもある庶民的な台所では母が焼きたての食パンの上にイチゴジャムを乗せている最中だった。テーブルには既に牛乳とヨーグルトとバナナが一本置いてある。毎朝の光景だ。
「おはよう、幸太」とイチゴジャムが乗った食パンをテーブルに置く。そんな母の挨拶が、寝不足の脳みそに響いて痛い。
「おはよう、母さん」
椅子に座り、焼きたての食パンをかじったところで、僕の視線が台所の奥にある和室の中心に置かれたイーゼルを捉える。その上には描きかけの油絵がひっそりと置かれていた。まだ全体の構図が定まっていないらしく、キャンバスの大半を白色が占めているが、左下に小さな黄色い花が添えられている。そんな絵を残して、創作主である父は今日も早くから出社しているようだ。もう三カ月以上もこの状態のままだ。
夢を追いかけて未だに彷徨い続ける父親と、いつまでも少女のような心を持ち続ける母親と、それを俯瞰で見ているどこか覚めたような息子。何処にでもいる至極普通の家庭に対して、無い物ねだりの裕福な悩みだと論理的には理解できる。しかし、何処かで虚しさを感じていた。
学校に行く支度を済ませ、玄関のドアを開けるとパステルブルーに染まった頭が悪そうな大空がぶら下がっていた。
まだ心の何処かで昨夜に生まれた嫉妬心が生きているようだ。
溜息交じりにポケットに手を突っ込むと指先に棒状の物体が当たる。何だ?
ポケットの中に入っていた物体を取り出すと、シャーペンより少し短く、両先が少し膨らんだ骨付き鳥を食べた後に残る骨のような棒が出てきた。
全く身に覚えがなく戸惑い、ちょっとした恐怖さえ覚える。
いつも洗濯している母さんが入れたのか? 何の為に?
試しに匂ってみるが特に臭いは無かった。僅かに熱を帯びているように感じるが、これが骨自身から発せられる熱なのか、自分の腿から伝った熱なのかは分からない。
その辺に捨てようかと迷ったが、何か捨ててはいけない義務感のような圧力に駆られ、諦めにも似た心境で骨を再びポケットの中に仕舞い学校に向かった。
徒歩一五分の場所に最寄り駅があり、そこから二駅乗ったところに学校がある。通学時間は合計で四五分。文句を言うに言えない微妙に遠い距離感を毎日のように往復する。ちょっと前まで満開を迎えていた校門前の桜並木はすっかりと散り、今では蛍光色に近い緑色をした若葉が芽生えはじめていた。春の陽気な日差しに誘われて小鳥たちが楽しそうに囀っている。そんな小鳥たちを真似るように校門前には真新しい制服で登校する新入生たちが楽しそうに囀っている。自分も一年前までそうだったはずなのに、随分と昔のように思えて目眩がする。
昨夜の件もあり生活リズムを崩したせいで、月曜日だというのに全身が鉛で覆われたように重く感じる。そんな身体で何とか下駄箱までたどり着くと、一学年上の女子生徒たちが6人ほどで群れを成して談笑していた。
「裕子は本当に何でも出来るのね。歌が上手くて、顔もカワイイとか反則だわ」
楽しそうな会話をしている6人組の中心に学園のマドンナ・藤田裕子が立っていた。僕よりも一つ上の先輩になることもあり彼女との接点はまったくないのだが、その生まれ持った魅力的な容姿から学園内外問わずちょっとした有名陣になっているため、こんな僕でも認知している訳だ。
会話の内容から察するに、おそらく昨夜に僕が観ていた動画のことを話しているのだろう。あの時に生じた既視感はやはり藤田先輩で間違いないようだ。動画の説明欄にはオリジナル楽曲と書いていた。そうなると、自分で作詞作曲しているのだろうか? 或いは、誰かが作った楽曲を歌っているのか? どちらにしても、何の才能も持たない僕とは真逆の存在だ。昨夜に生まれた嫉妬心がここで再燃しそうになった時、ポケットの中に仕舞った骨がほんのりと熱を帯びて僕の右腿に伝う。
驚きながらポケットに手を突っ込むが、骨は何も訴えずただ骨として僕のポケットの中で眠るように存在し続けている。
気のせいか。と気持ちを切り替えるように上靴に履き替えた。その刹那、何故だろう。僕の視界の端で未だに自分を称えて賑わっている話題の中心にいるはずの藤田先輩の表情が冴えなく映った。まるで夜空の星々に埋もれてしまいそうな冷たい三日月のように。
それも気のせいか。
やっとの思いをして最上階の四階まで登り切ると、脇と額から軽く汗が滲んでいた。息を整えながら教室に入ると、肩まで伸びた黒髪を耳にかけ、赤縁メガネをかけた佐々木優子が無表情で僕の席の前に座っていた。
教室には既に何人もの生徒が来ていて各々でグループを形成していたが、彼女の周りだけ誰も居なかった。まるで羊の群れから逸れた黒い羊のようだ。
黒い羊。一般的には悪い印象で囚われがちだが、僕個人としては真逆の考えで、一目置かれた特別な存在として考えている。それは何か偉業を成し遂げる人物の最低条件だと思っているからだ。常識に捕らわれていたら何も出来ない。その理屈は分かっていても、実際に行動できる人というのは、恐らく黒い羊みたいな存在だ。
だからという訳では無いし、僕の席が佐々木の真後ろという位置になっている為、自然と佐々木に挨拶する事が日課となっていた。
「おはよう、相変わらず来るの、早いな」
「おはよう。寝るの苦手だから。することもないし、慌てるのも嫌だから」
そう言って佐々木はいつものように、気だるそうな表情で海外の音楽情報を中心に扱っている雑誌のページを捲る。そんな佐々木の動作を見ながら僕は佐々木の真後ろの席に座りカバンを横の取手に掛ける。
改めて思う。佐々木が纏っている独特な雰囲気は同学年の他の生徒と比べて随分と大人びているというか、どこか醒めたように世間を遠くから眺めている節がある。今だって、まさに世界の真意に触れて全ての希望をかき消されたような無表情を浮かべている。
『何かあったの?』と問いかけても、『別に』と言ってそっぽ向く。その時の佐々木が浮かべる冷たい無表情に対し、僕はただ立ち尽くす事しかできず、それ以上の事情も聞けないでいた。そんな毎日だ。
「最近のお薦めの曲は?」と佐々木に話題を問い掛ける。
佐々木が僕と会話するようになった切欠は音楽だった。
二年生に進級して同じクラスに知り合いが誰もいなくて心細かったときに、前の席に座る佐々木がスマホで音楽を聴いていた。そのスマホの画面に、僕の好きなコールドプレイのジャケットが映っていたことを知り、思わず話をかけてしまった。同じ歳で洋楽を聴く知り合いがいなかった僕にとって、佐々木は貴重な人物だと直感で察した。
はじめは驚いて目を丸くした佐々木だったが、僕の熱心なコールドプレイ愛を熱弁していくうちに佐々木も思わず笑みを浮かべた。そこからは十年来の親友のように会話が弾んだ。
「最近はワンディとかテイラーとかポップな感じに偏って詰まらないわ。私は昔のグラムロックが好きだから最近の流行りものは苦手ね」とメガネの縁を軽く上げる。
「邦楽もアイドル一色になっちゃってるしな。ロック好きの僕たちには生き難い時代になったもんだ」
そんな風に二人で最近の音楽批判をしていると不意に藤田裕子の動画を思い出した。
「そういえば、佐々木は知ってる? 藤田先輩が歌っている動画なんだけど」と言いながら、スマートフォンを取り出して、昨夜観ていた藤田先輩の動画『三月、六月、一一月、涙』を画面に出す。
佐々木は一瞬だけ目を丸くして驚きの表情を浮かべるが、すぐにいつもの無表情に切り替わる。
「知らないわ。いい曲なの?」と動揺を隠すように意味も無くメガネを一度外して、すぐに掛け直す。おそらく、同じ学校に通う生徒が動画を出していたことに驚いたのだろう。
「佐々木が好きそうな雰囲気だと思うから聴いてみてよ」と言って僕はイヤホンの片方を佐々木に差し出すが、佐々木は浮かない顔を浮かべる。その表情はいつもの暗い影を落とすというよりは、明らかに躊躇いと戸惑いが付き纏うような複雑な表情だった。少し考えた佐々木だったが、結局は渋々ながら僕の差し出したイヤホンを手に取り右耳に付けた。それを確認した僕はスマホの動画を再生する。
画面は昨夜観た通りの少し暗い部屋に居る藤田先輩が少し緊張した表情を浮かべながら歌い出した。
やはり、昨夜にも抱いた違和感。まだこの曲には続きがありそうな中途半端な終わり方だ。
「どうだった?」と僕が尋ねると、佐々木は肩を竦めながらイヤホンを外し「悪くないわね。でもギターとピアノだけだと全体的なイメージが湧かないから、まだ何とも言えないわね」と興味なさ気に外したイヤホンを僕に返す。
佐々木もこの曲が完成していないと思っているようだ。だとすると、この曲の完成版は聴けるのだろうか?
そんな事を漠然と思っていると、既に大半の生徒が席に着いていた。そろそろ授業の準備をはじめようと、イヤホンをカバンにしまい数学の教科書を机に出した――
昨夜の寝不足の影響か、授業の半分以上が夢見心地だったおかげで、気付けば午前中が通り過ぎていた。
昼休みのチャイムが鳴ると同時に、クラスの生徒たちは持参した弁当を出したり、急いで食堂に向かったりと騒々しくなる。
「佐々木は今日も弁当か?」
僕はいつも食堂で昼食を取るが、この教室から食堂までは学校内でも最も遠い位置にあり、どんなに急いで向かっても5分以上は掛かり一番混み合う時間帯とかち合ってしまう。だから、あえてすぐに昼食を取らずに混雑する時間を避けている。対して、佐々木は毎日のようにコンビニのサンドイッチを持参している。しかし今日は違うようだ。
「弁当を忘れたから、売店でパンでも買ってくるわ」
佐々木は素っ気ない態度で席を立とうとする。しかし、その動作はぎこちなく一旦机に両手を付いてから勢いよく立ち上がると右足を庇うように歩きはじめる。
「肩を貸そうか?」
僕の提案は何も言わず右手を挙げて拒否された。佐々木は、そのまま右足を庇うようなバランスの悪い歩き方で教室を去る。そんな佐々木の様子を何も言わずに見送ったのは僕だけではない。既にこの学校中に佐々木の右足が義足であることは承知の事実として浸透していた。それでも何気ない日常に、佐々木の歩き方は馴染まないでいる。それは佐々木以外の生徒に身体障害者が居ないからだ。佐々木自身も、普通に歩くだけで視線を集めてしまうのだから、極力校内を歩いて行動するのには避けたいはずだ。恐らく、それが理由で誰も居ない時間を狙って必要以上に早く登校しているのだろう。そんな状況が余計に佐々木を黒い羊にしているのだろう。だから、普段は絶対に昼食は自分の席で済ませられるように弁当を持参している。と僕は勝手に解釈している。
そんな佐々木がわざわざ席を立って、生徒でごった返す埴土の横にある売店に行くなんて…… 嫌でも違和感が生じる。
一旦気になって仕方がなくなってしまった僕は佐々木に悪いと思いながらも、無駄に強いジャーナリズム精神に負けて、こっそりと跡を付ける。
階段に向かった佐々木は上層に登り始めていた。この時点で一階にある『売店に行く』という台詞は嘘だと確定する。屋上に向かっているようだが、屋外に繋がる扉は常に施錠されていて出入りは出来ないはずだ。
手摺りに寄り掛かりながらゆっくりと一歩ずつ階段を登る佐々木を確認したあと、僕は周囲に誰も居ない事を確認しながら忍び足で階段を昇ろうとした。しかし、屋上手前にある踊り場は随分と狭く、隠れられそうな場所が無かった。
僕は階段を降りてすぐの柱にあった掃除道具箱の影に身体を寄せて埃の匂いに紛れながら待つことにした。普段から人があまり通らないからか照明は消され、1メートル先も目を凝らさないと見えない程の暗さだ。簡単には見つらないだろう。しかし、昼食を摂らずに来たのは失敗だった。今になって激しい空腹感に襲われている。そんな事を思っていると、不意に人影が通り過ぎた。
「お待たせ」
佐々木とは異なる幼さの残る女性の声が聞こえた。
僕はそっと階段の隙間から見上げるように声の主を確認するが、角度的に佐々木の方ばかり見えて肝心の相手が見えない。
その声に聞き覚えがある気もするのだが、検討が付かない。
「あの音源はまだデモ段階だから、アップはまだって言ったわよね」
「ゴメン。すごくいい感じの動画が撮れちゃったから我慢できなくて、つい」
佐々木にしては珍しく語尾を強めて怒りの感情を露わにしている。しかし、相手の方からは反省の色が窺えず、柔らかな物言いで陳謝した。お互いに生じている温度差に僕の方が不安と緊張を抱いてしまっている。
「とりあえず、今週中に他のパートも入れるから公開した動画は削除して」
「えー! もう再生数が1000超えているのよ。勿体ないわ」
「そういう問題じゃないの。初めて聴く人に中途半端な作品を届けるとそれが基準になるでしょ」
「でもコメント欄にちゃんと完成品まで待ってね。って書いてるから大丈夫でしょ?」
「昨日聴いてくれた人がみんな完成品を聴きにもう一度帰ってきてくれる訳ないでしょ」
お互いの妥協点を見出す事すら拒否する程の平行線のまま、時間だけが無駄に過ぎていく。
どうやら、会話の内容から察するにあの動画の件だ。そうなると佐々木と会話している相手は藤田先輩で間違いないだろう。
それにしても驚いた。まさか佐々木が曲を作れるなんて思いもしなかった。その事実を知った瞬間にポケットの中の骨が徐々に熱を帯びている事を右腿に感じた。僕は咄嗟にポケットに右手を突っ込み人肌よりやや熱くなった骨を握り締める。今朝に初めて触れたはずなのに、随分と昔から持っているような不思議な安心感を与えてくれる。
今更になって聞いてはいけない会話だと実感し出し、罪悪感が増してきた。これは逃げた方が良さそうだ。
そう思い立ち、早速この場から離れようと掃除道具箱に手を添えた時に思いのほか軽かった掃除道具箱が大きく左右に揺れてゴトンッ! と鈍い音が響いた。
「誰!?」と藤田先輩が驚くように声を出すが、佐々木は冷静な口調で「大塚ね」と僕の正体を一瞬で見抜いた。
「どうして分かった?」と驚く僕に対して、佐々木は乾いた声で「私みたいな黒い羊に興味がある物付きなんて、この学校であなた位なものよ」と告げる。そんな佐々木に言葉を聞いた瞬間、とても寂しい気持ちになり、ポケットの骨から熱が消え去った。
「ゴメン、佐々木が休み時間に席を立つなんて珍しいから、つい追いかけちゃった」と観念して、屋上手前にある踊り場に向かう。
「盗み聞きなんて悪趣味ね」と佐々木は呆れた表情で肩を竦めると、藤田先輩は意味有り気な笑みを浮かべ「誰、佐々木の彼氏?」と茶化すように問う。
「そんな訳ないでしょ! ただのクラスメイトよ」と佐々木は何ら躊躇いもなく即否定した。少しショックだった。
階段を登り切ったところで、やはり佐々木と話をしていた相手が藤田裕子だった事が肉眼で確認できた。
今朝の会話で動画の存在を知らないと言い切っていたのも完全な嘘だったわけだ。佐々木とはそれなりに仲良くなった気がしていただけに少し裏切られた気がして無性に悲しくなった。
「そういうことだから、動画は消しといてね」
「分かったわよ。それじゃあ、そっちの彼氏さんは任せたわよ」
「だから彼氏じゃないってば」
再度否定した佐々木を見て満足そうな笑みを浮かべた藤田先輩は軽やかな足取りで階段を降りて行った。
取り残された僕と佐々木の間に重い沈黙が寄りかかりそうになるが、「はぁー」と佐々木の長い溜息が辛うじて沈黙を遠ざける。
「どこまで話を聞いたの?」
「全部」
僕の返答を聞き、佐々木は再び長い溜息を吐いた。
「それじゃあ、私と藤田の関係もバレちゃったのね」
「多分だけど、察するに佐々木が曲を作って、藤田先輩が歌っていたということかな?」
そんな僕の回答に佐々木は三度目の大きな溜息を付く。こんなにも他人の溜息を連続で聞いたのは人生で初めてかもしれない。
「そんな感じよ。でもこの件に関して大塚は他人だし、何かと都合が悪いから、今までの会話はすべて忘れてちょうだい」と軽くあしらうような物言いで突き放された。もちろん、盗み聞きしてた僕が100%悪い事は認める。しかし、こんなにも距離を取られるのは悲しいし、何故か悔しかった。
それにこの状況を冷静に考えれば、秘密という名の主導権を握っているのは僕の方じゃないか。と、もうひとりの悪い自分が囁く。このままだと、この会話は未来永劫的に触れられないかもしれないし、もうすぐ昼休みが終わってしまう。ここはイチかバチか誘ってみるか。
「このまま何も話してくれないなら、今までの会話を全生徒に公表するかも」とわざと悪びれてみた。
すると、佐々木は「は!? なんでよ!」と今まで見たことのない鋭い視線がメガネのレンズ越しに僕の瞳を突き刺す。
「もちろん、本当に他の人に話すつもりはないよ。でも、佐々木にとっても僕は友人くらいの立ち位置にいると思っていたのに、秘密にされていたのが悲しかった」と僕は素直に胸の内を明かす。
すると、佐々木は鋭い視線を解き、急に困ったように眉を顰めて黙り込む。それから何かを考えるように目を閉じると昼休みが終わる5分前を告げる予鈴が鳴り響く。そんな予鈴を聞き終えた佐々木は再び目を開き僕に問い掛ける。
「これから話す事は他言無用にしてくれる?」
「もちろん」
少し沈黙を溜めたところで佐々木は観念したように話し始める。
「さっきの答え合わせをするとね、私が作曲したのは正解。ついでに作詞も私。でも藤田が歌っているのは半分正解で、半分間違い。実は歌っているのも私なの」
少しうつむきながら答えた佐々木の様子を見る限り、嘘を言っているようには見えなかった。だとしたら、藤田先輩が歌っているあの動画は……。
「口パク!?」
思わず驚いて漏れた僕の大きな声がそこら中に響き渡る。
「声が大きい! 兎に角、私も彼女も思うところがあって、利害が一致してこういう状況になっているの。だから、誰にも言ったらダメよ。いいわね?」
真剣な眼差しで僕の瞳の更に奥にある心の底を覗き込んだ佐々木にそれ以上の詳しい事情は聞けず、僕はただ何度も小刻みに頷くだけで精一杯だった。
「分かったら、急いで教室に戻りましょう。次の授業が始まっちゃうわ」と言いながら、佐々木は当たり前のように僕の左側に寄り添い左肩に手を添える。普段なら、僕が手を貸そうかと言っても拒否するのに… 確かに今は時間が無い。いつもの佐々木が歩く速度では間違いなく遅れてしまうから、今回は佐々木にとっては仕方がない選択肢なのだろう。それでも、ちょっと嬉しかった。僕の肩から伝わる佐々木の手の感触、佐々木の髪から漂う匂いと義足から聞こえるゴムが擦れるような音と消毒液のような独特な匂い。そんな佐々木を構成する全てを感じていると自然と僕の鼓動が速まる。
そんな動揺を悟られないように、いつもの表情を意識しながら佐々木の歩幅と速度を合わせながら階段を降りて、何とかチャイムが鳴る前に教室の手前まで戻って来られた。すると、佐々木は何事も無かったように僕の左手から離れる。その瞬間、僕の耳元でそっと「あなたも共犯者だからね」と囁くと、ひとりで教室に入って行った。佐々木の言葉に動揺する隙も与えずにチャイムが鳴り始める。胸の鼓動を高鳴らせながら慌てて自分の席に戻る。
それにしても、佐々木が歌っていたとは驚きだ。その事実を徐々に受け入れ現実として認識し始めと、それに比例するようにポケットの中の骨が再び熱を帯び始める。人肌程度の微熱だ。混乱しているのか、昼食を取り損ねて空腹のはずのお腹も未だに空腹を訴えてこなかった。
共犯者。それが意味する先に何が待ち受けているのだろう。
午後からの授業は物理と数学だったが、どちらも上の空だった。それは僕の脳内で藤田先輩が(正確に言えば佐々木が)歌っていた動画のメロディが何度も何度も繰り返し流れていたからだ。
いつもなら学校が終わっても他の生徒が居なくなるまで席を立たない佐々木だったが、今日に限っては終礼が終わるなりすぐに席を立ち、そのぎこちない歩き方で帰宅してしまった。盗み聞きした行為を改めて謝罪したい僕は呼び止めようとしたが、気まずい雰囲気に苛まれて喉の奥まで出かけた謝罪の言葉を呑み込み、佐々木の後ろ姿を目で追う事しかできなかった。
帰宅しても心のモヤモヤは取れなかった。
風呂から出てベッドに寝転がり、テレビを点けると女性アイドルグループが新曲を披露していた。誰もが輝いて見えた。同時に佐々木の顔が思い浮かんだ。佐々木の意外な才能に僕は羨んでいるようで、嫉妬しているような、そんな複雑な感情が胸の奥に詰まっている。僕にも何かの才能があるのだろうか? 無かったらどうしようか…… やはりそうだ。今もポケットの中に入れていた骨が熱を帯びた。どうやら、この骨は僕の嫉妬心に反応して熱を帯びる仕様になっているようだ。ポケットから骨を取り出し、改めて骨の形状を観察する。どこにでもある棒状をした骨。もっと近くで見てると全体は不気味な灰色をしているが両先端にある丸みの部分には鮮やかな紫色が僅かに残っているように見えた。試しに骨の先端部分をイヤホンの要領で耳を入れてみたが、当然ながら聞こえるのは自分の鼓動と外から鳴り響く救急車のサイレンだけだった。いや、このサイレンも骨から聞こえているのかもしれない。そう思っていると、サイレンは徐々に遠ざかり最後には完全に闇の中へと走り去った。
ダメだ。骨に関する情報が少な過ぎて正体なんて分かるはずがない。このままティッシュに包んでゴミ箱に捨ててしまえば明日にはすっかり忘れてしまうだろう。それでも何故かこの骨から言葉では無い“何か”が僕に何かを訴えてきている気がする。それにその何かを僕自身がはっきりと理解しないと、この骨から逃れる事は出来ない気がした。
骨と嫉妬心と本当の気持ち――
僕の頭の中に浮かんだ言葉たちを出鱈目に羅列してみた。ヒントは僕の嫉妬心に骨が熱を帯びる事だけだ。
僕は再び骨をポケットに仕舞い、布団に包まる。
左肩には未だに佐々木の添えた手の感触がありありと残り、何かを訴えてきているように感じた。
得体も知れない“何か”でこの世界は溢れている。果たして、この“何か”をはっきりと明文化できる人間が今どれくらい存在するのだろうか。或いは、その明文化された答えなど所詮は幻想なのかもしれない。その方が都合の良い勢力たちでこの世界を操っているみたいだ。

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