気が付くと自宅の玄関に立っていた。
一体、どうやって帰宅したのだろうか。
全く覚えていない。
それ位の動揺が今の僕の全身を震わせ、意識は既に宇宙の彼方まで吹っ飛ばされていた。
ダメだ。冷静になんてなれない…
千恵子は何処だ?
急いで玄関の扉を開けるが部屋の照明は消えている。
どうやら、既に帰宅してしまっているようだ。
早く確認しないと――
震える手で携帯電話を取り出したが、、、
金縛りに遭ったように全身が停止してしまう。
同時に、心の中に居る冷静な自分が問う。
『事実関係を確認して、その後はどうする気だ?』
そうだ。
仮に『涼子なんて女性は、始めから居なかったわよ』と千恵子に全否定されたら。
涼子という存在を心の支えにして、今まで頑張ってきた僕はどうなる?
恐らく、今の僕を取り留めている全てが崩壊しする。
そして爆破処理される高層ビルのように、跡形もなく粉々に崩れ去ってしまうだろう。
そうだったのか。
昨夜の食卓で千恵子が浮かべた冴えない表情の理由はそういう事だったのか。
今日の僕がこうなる状況を察して、あの表情を浮かべていたという事か。
千恵子の残酷な優しさ。
僕は何て言い返せばいい?
「ありがとう」それとも「ごめんなさい」か。
いや、今の率直な心の叫びは「馬鹿野郎!」と言う罵声だ。
しかし、千恵子は何も悪くない。
寧ろ、僕の事を思っての行為だ。
そう、この物語に悪者は一切登場しない。
なんとも詰まらない物語だ。
そんな中で、強いて言えば、僕自身の弱さが悪者と呼べるだろう。
そう、全ての元凶は僕の弱さが撒いた災害だ。
怒るべき相手は千恵子じゃない。
僕自身に怒るべきじゃないか。
他人の千恵子を巻き込んではいけない。
そうやって、自分の中に湧き出た怒りを徐々に和らげる。
すると、次第に冷静さが戻って来る。
それは同時に、残酷な現状が愛撫する猫みたいに寄り添ってくる。
涼子が架空の人物…
あの夜に、僕は涼子と交わった…
あれは夢だったのか?
そういえば、あの夜、涼子に触れた感触を覚えていない。
あれも多重人格障害が起こした現象なのか。
ダメだ。
徐々に、自分の記憶に自信が無くなってきた。
ダメだ。
上手く理解できない。
ダメだ。
上手く消化できない。
本当にダメだ。
今は何も考えたくない。
疲れ果てた、鉛のように重くなった身体を、いつものソファーに放り投げる。
そして目を閉じ、全ての思考を停止させる事に努める――
「本当に人間って生き物は複雑ね」
まるで、悪戯を仕掛けた子供みたいな無邪気な笑みを浮かべながら、涼子が姿を現す。
「どういう事?」
「だって、そうでしょ? 人間は幸せになり過ぎると、些細な躓きで不幸に感じる。
だから、不幸な人生の方が些細な幸せでも膨大な幸福感を得る事が出来る性質を持っている。
それって随分と矛盾していると思わない?」
「それは結果論だよ。生きている以上、明日の事は誰にも分からない。
だから、今できる精一杯の事をして後悔しないように生きている。
始めから幸福を意識して行動するなんて、
そんな余裕を持った人間はそんなに居ないと思う。
少なくとも僕は不器用だから…」
僕の意見を聞いた涼子は満足そうに優しい笑みを浮かべる。
僕の返答など、始めから全て見透かしていたようだ。
「分かっているじゃない。
それじゃあ、あなたがこれからどう生きるべきかも分かるでしょ?」
そう言った涼子は、まるで幼い子供を庇うようにソファーで寝ている僕の頭をそっと撫でる。
「あなたはいつも難しく考えすぎるのよ。
もっと肩の力を抜いて、
たまには時の流れに身を任せる事も必要よ」
「そんなものかな?」
「そんなものよ。所詮、人生なんて死ぬまでの暇潰し。
永遠に続く宇宙に比べれば、人間の一生なんて刹那の邂逅。
だから、あまり思い詰めない事ね」
刹那の邂逅…
涼子なりに僕を励ましてくれているのだろうか。
しかし、どんな言葉よりも、涼子には僕の隣にずっと居て欲しかった。
「大丈夫よ。日中に浮かぶ月のように、私はいつもあなたの傍に付いているわ。
あなたが思っている以上に、私はあなたの事を想っているのだから」
そう言った涼子は、少しだけ寂しさを添えた優しい笑みを浮かべる。
なんだか、今日は随分と穏やかな表情を見せてくる。
「私が導けるのはここまで… あとは一人で行きなさい。
ここまで完璧にお膳立てしたんだから、最後はしっかりと決めなさいよ」
それが涼子と交わした最後の言葉となった。
夜が明ける頃には、既に涼子の姿は消え去っていた。
長い夢から覚めたように、随分と目覚めの良い朝だった。
流れていた涙も既に乾いて結晶と化している。
「おはよう」
僕はもう独りだ。
最も頼りにしていた大きな翼を失った。
「おはよう」
もう飛べない。
涼子の事を思う度に、切なさと寂しさが津波のように襲い掛かる。
「おはようってば!」
思い切り耳元で叫ばれたところで、初めて千恵子の存在に気付き、僕は一瞬で現実に引き戻された。
「何か難しいことでも考えてたの?」
そう言いながら、千恵子は口を尖らせて卑しい物を見るように目を細める。
そんな千恵子を見た瞬間、鈴木先生は誰よりも千恵子が僕の心配をしていると断言した事を思い出す。
今見る限りでは、とてもそんな風には見えない。
しかし、それは逆に僕の事を気遣い、いつものように振舞っているからなのだろうか…
どちらにしても、僕が必要としていたのは、千恵子ではなく涼子だった。
それが例え僕が創り出した架空の人物だったとしても、間違いなく僕の中には常に涼子が僕を支えてくれていた。
「また悲しそうな顔してる」
いつまでも千恵子を困らせたくない。
それなのに僕の心は過去の鎖に繋がれている。
まるで奴隷のように個人の世界に留まり続ている。
「悲しみを拭い去る簡単な方法はないだろうか?」
無意識レベルで、軽はずみな質問を千恵子に投げ掛けていた。
そんな哀れな僕を見て、千恵子は涙に暮れる子供を慰めるように僕の髪を優しく撫でる。
「悲しいと思えるのは良い事よ。
だって、それだけ涼子さんの事を想っていたという事でしょ?
その悲しさは、涼子さんがあなたの中に居た証拠。
だから、その悲しい感情を忘れない限り、
涼子さんはずっとあなたの中に居続けるわ」
素敵な事を言っているように聞こえた。
しかし、よくよく考えると残酷な事を言っている気もした。
恐らく、現実なんてそんなものなんだろう。
常に愛の側に裏切りが付きまとうように、涼子を忘れない限り、常に悲しみと切なさが寄り添い続けるらしい。
そんな救いようのない未来を見つめた途端、僕の未来の全てが暗黒に包まれそうな気がした。
そんな暗闇に怯え、小刻みに震える僕の小さな背中を、千恵子がそっと背後から抱きしめてくれる。
そんな優しい微熱は凍り付いた僕の心を少しずつ溶かし、やがて不安と共に涙が流れ出ていた。
その雫は大地に戻り宇宙の一部へと還る。
背中で感じる千恵子の鼓動は、脈を打つ度に僕がちゃんと生きているのだと、励ましてくれている気がした。
その励ましが、僕の妄想と現実を繋ぎ止める唯一の縫い針となっている気がした――
この針はいつまで留まってくれるだろうか。
またブラックバードや涼子みたいに、あっさり消え去ったりしないだろうか…
12月の固くて冷たくて灰色の空は6月の梅雨空とはまた異なり、僕の心までしっかりと覆っているようだった。
そんな空の下、僕はというと、千恵子以外に誰も居ない九十九里浜に居た。
冬のそよ風は肌寒く、無音の浜辺は、それだけで不安を誘う。
そんな浜辺を、ただ何をするでも無く、無言で二人寄り添い歩いていた。
そんな静寂の浜辺とは裏腹に、僕の脳内は騒がしかった。
明日はいよいよ東京ドーム公演の本番だ。
ブラックバードからすれば晴れの舞台。
或いは、伝説を残す偉大な日になるのかもしれない。
しかし、今の僕にとっては、死刑が執行される日以外の何ものでもない。
このまま孤独な海に逃げ出したい。
今、自分が海に身を投げ出して溺れたとしても、誰も助けに来ないだろう…
そんな妄想をしてみるが、残念ながら僕の隣には、真実を全て知ったあの日から常に千恵子が付き添っている。
傍から見れば恋人に見えるかもしれない。
しかし、実際には監視員と囚人のような関係だ。
華やかなステージで輝いているアイドルほど、裏で何をしているか分からない。
見た目に騙されてはいけない。
寧ろ、この世界には人間の目に見えない物で溢れている。
魂も、神も、素粒子も、目に見えないから崇高な存在でいられる。
そして、この宇宙からすれば、重要な物質なのだ。
それなのに、どうして人間は目に見えないものを信用しないだろうか。
そんな、どうでもいい事を考えながら、海の遥か先の地平線を眺めていた。
「そろそろ帰りましょうか。風邪でも拗らせたら大変」
まるでお母さんの様な事を言う。
そっと手の握ってくる千恵子の手からも、母親の温もりを感じた。
こんなにも暖かいはずなのに、千恵子の暖かさを感じれば感じる程、
心の奥底から悪寒のような後ろめたさと漠然とした不安が芽生えてしまう。
僕はまだ涼子の事が忘れられないでいる。
きっと死ぬまで僕はブラックバードと同じくらい、涼子の事も忘れられないのだろう。
このままだと千恵子に悪い気がするから、僕は「ありがとう」の代わりに千恵子の手を握り返す。
そうすると、千恵子も何も言わず、強く握り返して目を細める。
この世に無言の会話ほど真実に近いものはない気がした。
何も言わずに僕をずっと支えてくれる千恵子には感謝しかない。
そう、感謝しかないのだ。
だから、当然ながら恋愛という猥褻な感情も存在しなければ、欲望という崇高な感情も湧かない。
この世界には吐いて捨てるほどに愛の歌で溢れている。
それなのに、僕の頭の中には、今も孤独で残酷な無音の世界に支配されっぱなしだ。
或いは、何かの音楽が流れているのかもしれないが、今は何も聴こえない。
それは誰も居ない海に響く潮騒が悲しい叫びのようにかき消しているのか、
冬の固くて冷たい灰色の空が、人間の愚かさを嘲笑うように僕の耳を塞いでいるのか…
どちらにしても、今の僕に愛を歌う資格はないようだ。
だから、東京ドームでのセットリストに愛の歌は入れていない。
それは愛を歌った瞬間に、世界に対して嘘を付いてしまう事になるから。
ブラックバードの世界観に汚い嘘を添えてはならない……
そもそも、こんな状態で東京ドーム公演を迎えても、失敗する事は目に見えている。
ならば、いっその事、千恵子の握る手を振り払い、誰も居ない孤独な海に身を投げ出そう……
そう思い立った瞬間だった。
――パチンッ!
僕の右頬に乾いた音が響く。
あまりにも一瞬の出来事で、何が起こったのか理解できなかった。
次第に僕の右頬からジンジンとした切ない痛みが湧く。
そして僕の足元に、何故か、潮騒の先端が僕を導くように靴とズボンを濡らしていた。
知らず知らずのうちに、僕は海に入ろうとしていたようだ。
「しっかりしてよ! あなたはブラックバードでしょ!?」
「違うよ。僕はブラックバードじゃ…」
「違わないわ! 世界中の何処を探しても、あなた以外にブラックバードは存在しないのよ!」
僕が否定するよりも先に千恵子が否定した。
そんな千恵子の言葉に同調するように潮騒が賛同するように荒振る。
同時に、今まで頑なに閉ざしていた灰色の雲の合間から、一筋の光が射し込み、僕を照らし出す。
そうだった。
他人から見れば、間違いなく僕がブラックバードなんだ。
そんな当然の事を今まで僕は理解していなかった。
同時に、今まで頭の中の巨大なダムに溜まりに溜まった多くの言葉たちが崩壊したように流れ込んできた。
気が付くと僕は千恵子の身体を強く抱き寄せていた。
千恵子の髪の感触、
そこから漂う体臭と潮騒の香り。
小さな胸の温もり、
そこから伝ってくる鼓動のリズム。
そして叩かれた右頬の淡い痛み。
涼子の時とは違い、はっきりと千恵子の感触が感じ取れる。
思い返せば、初めて第三者に僕がブラックバードなんだと認められた気がした。
不思議な感覚だが、とても誇らしく感じた。
それもそうか、涼子もブラックバードも元を辿れば僕自身だ。
僕の領域を超えた千恵子の言葉には現実味と真実味が入り混じっている。
長い間、僕は自分が創り出した樹海に彷徨っていたようだ。
そんな樹海に長い間発生していた濃い霧が、嘘みたいに消え去ったようだ。
今でははっきりと周囲が見渡せる。
「ありがとう… もう迷わない」
そう誓った千恵子との接吻は、乾燥して荒れた唇の感触がして、この世界の真実に触れた気がした。
それだけで、明日の東京ドーム公演が何とかなりそうな気がするのだから、人生とは不思議なものだ。
どうやら、愛とは、人間を単純な生物に変えてしまうらしい。
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