打ち合わせが済んだ頃には、すっかりと日が暮れていた。
長い刑期を終えて、久々に自由を手にした気分だ。
しかし、未だに重い頭痛と酷い疲労が全身に充満している状態は未だ変わらず、僕は壊れかけのロボットみたいな歩き方で1階に降りる。
すると、あからさまに不満そうな表情の千恵子が僕の前に立ちはだかった。
「どうしたの?」と僕が問い掛けると千恵子は口をへの字に曲げて肩を竦める。
「何かやましい事でもしていたのかと思って」
「やましい事って?」
「別に」
言葉とは裏腹に千恵子の態度は全く持って“別に”といった雰囲気ではなく、明らかに何かしらの不満を訴えている。
更に千恵子は僕の顔に鼻先を近づけて匂いを嗅ぎ始めた。
幸い、昨夜はニンニク料理を食べた記憶はなく、どれだけ匂ったところで臭くはないはずだ。
僕はしばらく黙って千恵子の気が済むまで無抵抗を貫く事にする。
顔から始まり耳や後頭部、頭頂部と念入りに匂いを嗅ぐ千恵子。この時間は一体何だろう?
自然と千恵子の耳や髪の匂いが嗅げる距離に居るので、僕は僕ので千恵子の匂いを嗅いでみた。
シャンプーの中に若干の千恵子の体臭が混ざった女性の匂いがした。
それだけで何故か変な気持ちになりそうだった。
そして数分が立ち頃には気が済んだのか、諦めたように千恵子はため息交じりに嗅ぐ事を止めた。
それでも不貞腐れた表情は崩さないまま自分の机に戻ろうとする。
そんな千恵子の態度に不満を抱いた僕は思わず千恵子の左腕を掴んで制止させた。
「だから、何もないって。だって3人で会話しているんだぜ。しかも仕事の話しだ」
そんな僕の訴えに対しても、千恵子は掴んだ僕の腕を強く振る解き、表情を更に曇らせる。
「ブラックバードって人が前に言っていた事を覚えている?」
「何?」
「 “嘘付きは政治家の始まりだ”って。あなた、これから選挙にでも出るつもり?」
確かに、ブラックバードがちょっと前にそんな事を言っていた気がする。
しかし、後半に付け加えられた皮肉たっぷりな捨て台詞は千恵子のオリジナルだ。
「だから、本当に何も無いって」
完全な千恵子のイチャモンに解決の糸口が見つからないまま平行線を辿っている時だった。
「もう、分かったわ」と全く納得していない様子で静かに呟いた千恵子が半ば折れる形で会話が終わる。
このまま議論を続けても終着点は見つかりそうにない。
僕が今、どんなに言葉を尽くしたところで逆効果なのは火を見るよりも明らか。
これは時間が解決してくれる事に期待するしかないと諦めた僕も、それ以上の言葉を添えずに元居たソファーに戻った。
何とも後味の悪い空気だ。
こんな時に気の利いた言葉でも添えられれば、千恵子の淀んだ表情にも多少の晴れ間が差し込むだろうに…
ブラックバードならば、或いは意図も簡単に適切な言葉を織り成すのだろうか。
『もしも俺が選挙に出たら、キミからの清き一票は貰えるのかな?』みたいな。
今ほどブラックバードに縋りたいと思った瞬間はない。
そもそも、千恵子は何をそんなに疑っているのだろうか?
全くもって検討が付かない。
機嫌が悪いだけならいいのだが… 生理か?
それから3日後、ブラックバードは約束通り新曲を完成させていた。
しかし演奏の完成がギリギリだったらしく、昨夜から始まったレコーディングは今朝を越えて正午まで続いたようだ。
そして現在深夜1時を過ぎた辺り――
僕たちはサファイア・レコードが用意したワンボックスカーの中で揺られていた。
レコーディングを終えたばかりのブラックバードは後部座席の隅で死んだように眠っている。
「笹沖に無理を言って、何とか撮影できるビルを抑えさせたわ」と深夜だというのに、いつも以上にテンションの高い涼子の声が車内に響く。
ブラックバードが起きないか心配だ。
ここ最近はコンサートにレコーディングと仕事が続き、随分と疲労が困憊している様子だった。
ちょっとでも休んで欲しいのがマネジャーである僕の願望だ。
「実際に使っているオフィスビルで一室を水浸しにしたいって言ったら、許可が出るビルなんて都内になかったのよ。それで今、群馬に向かっているわ」
確かにプロモーション・ビデオの構想を話している時に雨がどうとか言っていた気がする。
試しに車窓を覗いてみるが街灯もコンビニも見当たらず、不安を煽るような暗黒だけがどこまでも広がる田舎町を走っている事だけは把握できた。
しかし、本当に室内で大量の雨を降らせて大丈夫なのだろうか?
「大丈夫よ。火災が発生したら自動でスプリンクラーが発動して水浸しになるでしょ? それと一緒よ!」
と得意げな表情で小さな胸を張る涼子のトンデモ理論には同意できないが
「よく許可が出たね。随分とアートに理解がある管理者なのかな?」と僕の素朴な疑問を聞いた涼子は、悪代官のように右側の口角だけを上げ、僕の耳元にそっと囁くように
「サファイアが結構な金額を払ったらしいわよ」と意味有り気に目を細めた。
「そっちか!」
そんな他愛もない会話をしながら後部座席を窺うと、最終電車に揺られるサラリーマンのように熟睡するブラックバードの頭が前後に揺れる。
その度に漆黒の仮面がズレると、無意識に直しながら眠り続ける。そんな動作を何度か繰り返していた。
ちゃんと休日を与えたいのだが、今は多忙な時期だ。
車の移動中だろうと休めるうちに休んで貰うしかない。
才能の欠片も持たない僕でも何か出来る事はあるはずだ。
少なくとも今はブラックバードを全力で支える事に集中しようと決意した時、ポケットの中で携帯電話が震える。
“東京ドーム公演の件”という題名が付いた笹沖からのメールだ。
そして2日前に届いていた母親からの未開封のメールがおまけ程度に表示されていた。
笹沖のメールには東京ドーム公演での演出に関する内容とスポンサーの選定が書かれていた。
この前のツアーと違い、1発本番の大きなキャパシティでのコンサートともなると主要スポンサーが確定しないと公演で使える予算も決まらない。
そんな内容のメールだ。
大体の主要スポンサーはほぼ決まっているようなので、あとは変な事件や不祥事を起こさない限り問題ないだろう。
ブラックバードに限って不祥事なんて。。。一瞬だけ不安が過るものの、ブラックバードは常に僕と一緒に居る。
まずブラックバードに限って変な事はしないだろう。
僕が笹沖に返信を済ませたところで僕等を乗せた車が何の前触れもなく停まる。
再び車窓を覗き込むと妙に細長い灰色の雑居ビルが1軒だけポツリと建っていた。
夜で全貌は見えないが、随分と築年数を重ねて草臥れた印象を受ける。
周囲には小さな飲食店が幾つか並んでいるが、こんな深夜で営業を行っている店など無く、
随分と寂しく冷たい崩壊前夜の東ドイツを思わせるような光景が広がっていた。
そんな周囲に構う事なくマイペースの涼子は「このビルの5階から8階を借りているわ」と活き活きと声を弾ませる。
そして無邪気に遠足を楽しむ児童のように我先にと勢いよく車から飛び降りてビルに向かって走り出す。
そんな姿を老人の優しい眼差しで見送った僕は次に「着いたよ」と後部座席に向かって告げる。
すると、上下に揺れていたブラックバードの頭がピクリと止まり「変な夢を見た」と呟き、大きな欠伸をしながら両手を伸ばす。
変な夢? ブラックバードが見た夢が気になりながら、
僕も車から降りると既にビルの出入り口には中型トラックが2台と小型のタンクローリーが並んで停車していた。
銀色の貨物部分には“(有)ライネオ”と無機質な文字で書かれている。
そんなトラックから背中に“ライオネ”と書かれた黒いジャンパーを着た撮影スタッフたちが照明器具やら撮影に使うセットを荷台から降ろして忙しくビルの中へと運び込んでいた。
トラックは分かるのだが、隣のタンクローリーは何の為にあるんだろう?
そんな疑問を抱いているとビルの中に入った涼子が「あまり時間が無いから急いで!」と僕たちに向かって大きく手招きをしている。
まるでおもちゃ屋さんに到着した子供みたいにはしゃいでいる。何か買わされそうで怖い。
そんな涼子を眺めながらゆっくりと車から降りてきたブラックバードが再び大きな欠伸を漏らす。
「大丈夫?」
「問題ない」
僕の不安を余所にブラックバードは素っ気ない返事をするが、そのふら付いた足取りを見る限りどう見ても大丈夫ではなさそうだ。
しかし、この仕事はブラックバードが居なければ何も進まない。
疲弊し切ったブラックバードに対して何も出来ない無力な自分に対して怒りすら感じる。
すると僕の視界には下弦だけが怪しく輝く月が映る。
そんな孤独な月を見ていると不意に千恵子の言葉を思い出す。
――何かやましい事でもしていたのかと思って――
あれから千恵子とはまともに話をしていない。
だから千恵子の放った言葉の真意が未だに分からないまま今に至り、小魚の骨が喉に刺さったようなもどかしい感情を抱き続けている。
しかし、今考えても仕方がない。
僕も急いでブラックバードの後を追ってビルに入った。
「ブラックバードさん入られま~す!」
若い男性スタッフの声が室内に響くと、その場に居たスタッフは全員が手を止めてこちらに向かい深々と挨拶をする。
「そんなのいいから、早く作業を進めて頂戴!」と空かさず涼子が手を叩きながら皆に作業を急がせる。
時間制限でもあるのだろうか?
「他のフロアは違う会社が入っているから、ビルでの撮影許可が得られたのは深夜2時から6時までの4時間だけなのよ」と肩をすくめた。
なるほど、それは随分とタイトなスケジュールだ。
「ブラックバードさんの楽屋は5階になります」
女性スタッフが僕たちの前に立ってエレベーターまで先導するが、
僕の横を歩くブラックバードは重い足取りで辛うじて僕の付いてくるのが精いっぱいのようだ。
「私はすぐにカメラのリハーサルに入るから、12分で衣装に着替えて、18分でメイクを済ませて、4分で8階まで来て頂戴!」
と早口で言い放った涼子に背中を押されるとエレベーターの前では既に他のスタッフが開ボタンを押し続けて僕たちの到着を待っていた。
涼子の指示はまるで一国の王様みたいに分単位のタイト過ぎるスケジュールで、一度聞いただけでは覚えられなかった。
しかし“とにかく急げ”という事だけは理解できた僕はブラックバードの手を取って小走りでエレベーターに飛び乗り、
随分と使い古された肌色の5と印されたボタンを押すとゆっくりと自動ドアが閉じた。
その途端に先程の忙しさが瞬殺され、突然の沈黙とタバコ臭さが周囲に漂い始める。
すると、今まで虚勢を張っていたのかブラックバードが壁にもたれて身体を崩し掛ける。
「本当に大丈夫?」
「この仕事が終わったら、しばらく休みたい」
ブラックバードにしては珍しく率直な弱音が漏れた。
初めて聞くブラックバードの弱音に僕は随分と驚いたが、冷静に考えれば無理もない話だ。
ブラックバードも人の子。本来であれば、全国ツアーが終わればしばらくの休養に入るものだ。
それが今回はサファイア・レコードの強引なスケジュールで働きっぱなし。
このままだと身体だけでなく、精神さえも崩壊してしまう。
この仕事が終われば、会社に無理を言ってでも休養を取らせようと固く誓った瞬間にエレベーターの扉がゆっくりと開いた。
身体を立て直したブラックバードと5階に降りると「こちらになります」と女性スタッフは空かさずエレベーターの開ボタンを押したまま、指を差して方角を示している。
そんな女性の指の差す方向に進むと、明らかに中小企業の建設事務所の中にありそうな休憩室に通され、各々の工程に専属スタッフが既に待機していた。
「こちらが衣装になります」とスタイリストの女性が準備した潤沢に輝く如何にも高級そうな黒いスーツを渡されるとブラックバードは黙々と着替え終える。
「次はヘアーメイクに入ります」と次は美容師の男性がブラックバードの髪にヘアスプレーやらワックスを塗りたくり、
立体的に髪型を整えていくと最後はヘアーアイロンでクルクルとブラックバードの毛先を遊ばせて仕上げる。
「完成しました。急いで8階まで移動してください」とエレベーターに戻されると、
その間ずっとエレベーターの開ボタンを押し続けていた女性が急かすように大きく手招きしていた。
そんな具合で再びエレベーターに乗り込むと涼子の指示通り、12分で衣装に着替え、18分でメイクを済ませ、4分で8階に到着した。
「時間通り! 流石は私が集めた優秀なスタッフたちね」と自画自賛する涼子はその足で空かさずブラックバードに近寄り、絵コンテを見せながら全体の流れを身振り手振りを交えながら熱心に説明し始める。
その周囲では演者のメイクや衣装の最終チェックを行っている女性スタッフたちが忙しく動き回っている。
皆がギリギリの状態で仕事を行っているのがヒシヒシと伝わり、僕の方まで緊張してきた。
「流れは把握できた?」
涼子の問いにブラックバードは何も言わずに一度だけ頷くと、それを合図にスタッフたちは急いでセットから離れる。
そして涼子もカメラマンの横に置いてある椅子に座りフロア全体をゆっくりと眺めると周囲は一気に静寂に包まれた。
無精髭を生やした中年カメラマンはファインダーを覗き込み構図の最終チェックを始めた。
演者たちも各々の立ち位置に向かいスタンバイを始め、全ての準備が整ったところで涼子がゆっくりと皆に語りかけるように話し出す。
「この作品は1カットで全て撮るから当然、失敗は許されないわ。皆、緊張感を持って挑んで頂戴」
涼子の険しい表情に現場は更なる緊張感が増した。
そんな雰囲気に涼子は満足したように大きく頷くが、こんな状況でさえブラックバードは落ち着いた様子で軽くアキレス腱を伸ばしている。
「あなたも準備は良い?」
涼子の問いに、ストレッチを終えたブラックバードは黒い仮面を微調整するように軽く動かしてから、何の言葉も添えずに軽く右手だけを挙げた。
すると、女性スタッフが思い出したように小走りで孔雀の羽根に似た柄の奇抜なジャケットをブラックバードの元に持って行く。
ブラックバードも素直にジャケットを羽織り全てのスタンバイは整った。それを確認した涼子は助監督に向かい目で合図を出す。
「よーい、スタート」
助監督の掛け声を合図に完成したばかりの新曲『楽園の定義とその副作用に着いて』が室内に大音量で流れ始める――
〈イントロ〉
爽やかな笑顔で「ここが楽園だよ」と平然と嘘を付く天使のような優しくも切ないジャジーでシックなピアノの音色がしなやかに響き渡ると、
その直後から徐々に近づく嵐を示唆するような灰色のベースラインが透明なメロディーに輪郭を色濃く彫り出すように交わり始める。
そんなセピア色に染まった一節が通り過ぎたタイミングでどこにでもあるオフィスの廊下に青いスポットライトが灯り、漆黒の仮面を掛けたブラックバードを妖しく照らし出す。
その途端に激しく脈を打つ鼓動のようなドラム音が脳と胸を震わせると全ての音が融合を果たし本格的な嵐に襲われる。
セット裏に隠れているスタッフが大きく右手を振ると、それを合図にブラックバードが徐に歩き出す。
その動きに合わせてスポットライトが青色から赤色に変化すると、何処からともなく廊下の中央にスタンドマイクが姿を現わすが、そんな不思議な現象に無関心を貫くブラックバードは当然のようにマイクを気だるげに取り、そっと歌い始める。
〈Aメロ〉
「後悔したくないと考えてしまううちはまだ子供なんだよ」
そんな言葉残して僕らのお父さんはこの世から出て行った
〈Bメロ〉
君が来世だったらどう思うかな? 魂の場所探すかな?
時代のせいにしていると「ドウジョウシマス チュウイシテ クダサイ」
〈サビ〉
楽園に行きたいな
そんな妄想に逃げていると
副作用が現れ感覚が麻痺するだけ
泣かないで 笑って…
〈間奏〉
気持ちよく歌い上げたブラックバードは満足げに頷くとマイクスタンドからマイクだけを取ると再び廊下を歩き出す。
突き当たった所にあるエレベーターに到着すると、その瞬間にエレベーターの扉がゆっくりと開くのだが、
そんなエレベーターの狭い室内には上半身裸で白鳥の作り物を頭に被った人物がドラムセットを激しく叩いていた。
しかし、そんな人物に対しても全く動じないブラックバードは何事も無かったかのように狭くなったエレベーターの隅に乗り込む。
エレベーターが閉まると同時に涼子は空かさずモニターに視線を送ると、
その中にはエレベーターの天井角隅に設置した小型カメラが黒い鳥型の仮面をした男と白鳥の被り物でドラムを叩く男の何ともシュールな映像を捉えていた。
それを確認した涼子はすぐに数名のスタッフと共に階段に向かって駆け込んんだ。
そんな涼子たちの姿に釣られて僕も思わず涼子を追いかけて6階へと降りた。
すると、エレベーターの近くに立っていたスタッフがストップウォッチを見ながら指を折りながらカウントダウンを始めていた。
涼子は予め6階に用意されていた椅子に座り、再びメインモニターを見つめるとブラックバードを乗せたエレベーターがゆっくりと開く。
そんな6階のセットは先程の廊下とは一転して、床面や壁や天井など目に見える全ての場所に様々な色の造花で覆い尽くしていた。
照明も先ほどの妖しい赤いスポットライトから全面を照らす自然光に近い照明に切り替わり、
辺り一面を華やかに照らし出し、本物の楽園を連想させるように輝いていた。
それでもブラックバードはノーリアクションのまま、再び歌いながら廊下を歩き始める。
〈Aメロ〉
「ただ愛し過ぎたから嫌いになっただけだわ」
そう言って出て行った
僕のお母さんからひとつだけ教わったこと
忘れたい? 忘れない
しばらく歩き続けると、廊下の突きあたりを曲がった所で今までの造花の飾りが一切無くなり、再び最初の殺風景な廊下と青いスポットライトに戻る。
その先に赤を基調とした豪華な刺繍の入った着物姿のギタリストがリアルな狐の面を被り、激しく身体を揺らしながらギターを掻き鳴らしていた。
青いスポットライトに照らされた歪なギタリストに対してもブラックバードは興味無さそうに素っ気なく横切る。
そんなギタリストから離れるうちに照明が青色から紫色に変わり、最終的には赤色に切り替わりまでのグラデーションがブラックバードの仮面に表情の変化を与える。
この辺り、流石はライネオの巧みな仕事だなと思わず感心してしまう。
〈Bメロ〉
悩み続けることが自分を保つ唯一の方法なのよ
君のお母さんなら真意の裏も教えてくれるかな?
再び廊下の曲がり角に差し掛かると、今度は出合い頭で黒いバレリーナ・ドレスを着たシマウマの被り物をしたダンサーが優雅に回転しながら横切ると、
間髪入れずにリアルなメイクをした不気味なピエロがボーリングのピンをジャグリングしながら通り過ぎる。
更にその後ろからリアルな馬や豚の面を被った上半身裸の男たちが行進しながらブラックバードの真横を通り過ぎる。
独特な世界観を描きながら再び廊下の突き当たりに到着すると、紫色のスポットライトが廊下を照らし、
その真下に再びマイクスタンドのスタンドだけが現れる。
そんなマイクスタンドに対して、今まで持っていたマイクを取り付けたブラックバードは改めて気だるげに歌い出す。
〈サビ〉
楽園と眠りたい そんな欲望に溺れると
副作用に笑われ感情も麻痺するから
後悔はしたくないと今でも思っているんだ それが
僕が僕で居続ける為の方法なんです
泣かないで 笑って…
サビを歌い終えた所でブラックバードは両手を広げながら天を仰ぐ。
すると、屋内にも関わらず大粒の雨が大量の照明で眩しいくらいに照らされながらブラックバードの黒い仮面を洗い流すかのように激しく叩き付ける。
恐らく、これが打ち合わせの時に話していた「アパルトヘイトを懐かしむ白人のような雨」なのだろう。
そしてこの雨を準備する大量の水を載せていたのがビルの出入り口に停まっていたタンクローリーという事か。
でも、僕からすればガラスのような刃に見えて、ブラックバードがこのまま跡形もなく刻まれそうな気がして、とても不安になった。
そんなアパルトヘイトを懐かしむ白人のような雨に打たれたブラックバードの仮面をスポットライトがピンポイントで照らし出す。
〈Cメロ〉
楽園の定義とは、弱さから生まれる逃げ場所?
後悔の定義とは、僕が僕を認める行為なのかな?
まだ子供なのかな…
切ないブラックバードの歌声は宙を彷徨いながら、余韻に浸りながら徐々に姿を消した。
その途端、降りしきる雨音だけを虚しく響かせながらブラックバードの全身を容赦なく濡らし続けた。
ただでさえ漆黒に染まる仮面が、更に色濃く染まるように濡れ、鋭く垂れ下がった鼻先からは大量の雫が妖しく滴り落ち続ける。そんな滴り落ちる雫をズームアップして捉えるが、徐々にピントがぼやけると最後は画面全体が真っ白になった――
「カット!」
演奏が終わり数秒の沈黙が流れた所で助監督の声が掛かる。
その途端にカメラの裏側で待機していたスタッフたちが大きなバスタオルを持って、
ずぶ濡れになったブラックバードや演者たちの元へと駆け寄る。
そんな演者たちに構う事無く涼子はすぐにカメラマンの元に駆け寄り、先ほど撮った映像を小さなモニターに映し出し、鋭い眼差しでチェックを始める。
室内とは言え、冷たい雨に打たれたブラックバードの唇は紫に変色していた。
タオルを受け取ったブラックバードは髪を拭きながらこちらに向かって来た。
「どうだった?」
「らしい世界観だったよ。分かる人には分かって貰えると思う」
「そうか」
僕の感想を聞いたブラックバードは満足した様子で衣装を拭きながら涼子のチェックを待つ。
涼子の鋭い眼差しが小さなモニターに注がれる間、周りのスタッフたちも固唾を呑んで涼子の真剣な表情を黙って見守る。
これでNGだったら、始めからやり直し。
そうなれば、濡れた廊下を一斉に拭いてセットを始めから組み直さなければならない。
最悪の場合、撮影時間が足りなくなる。
そんな不安を余所に、小さなモニターが先ほど撮影した映像を全て流し終えると、涼子の鋭い眼差しがそっと閉じた。
それから数秒の沈黙を開けて、
「OK! 凄く良い画が撮れたわ。みんな、ありがとう!」と涼子の嬉しそうな台詞が現場に響く。
すると、そこに居た全てのスタッフたちから大きな拍手と歓声が起こる。
しかし、撮影成功の祝福したのも束の間、時計を見ると既に午前5時半を回っていた。
スタッフたちは急いで撤去作業に取り掛かった――
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