実家の位置を間違えたのか?
自分の記憶を疑いながら、周囲の景色と道路などの位置関係をもう一度確認するが間違いないはずだ。
いや、幾ら考えても埒が明かない。
実家に電話を掛ければ全て解るだろう……
そんな簡単な解決方法を見失うほどに動揺しているようだ。
一旦落ち着こうと一息付き、携帯電話を取り出し実家に電話を掛ける。
しかし、呼び出し音が鳴る度に鼓動が高まる。
実家の母親と話すだけなのに、どうしてこんなにも緊張しているのだろうか…
『この番号は現在、使われておりません。今一度、番号をお確かめになってお掛け直し下さい』
機械仕掛けの乾いた女性の声が僕の緊張を恐怖心へと変える――
電話番号が変わったか?
携帯電話の画面を確かめるが、間違いなく母親の番号だ。
故障? 電波障害?
そもそも本当に実家の位置は合っているのか?
混乱が混乱を呼び、徐々に自信が無くなってきた。
同時に全身の力も徐々に抜けてくる。
一体、これから、どうすればいいんだろう。。。
目的地を失くした瞬間、故郷だったはずの居場所は急に顔色を変える。
それはまるで見知らぬ異国情緒を漂わす、幼き悪臭のような余所余所しく僕から遠ざかっているように思えた。
そして漠然とした不安と困惑が次第に僕の思考を停止させようと強く抱きしめる。
このまま溶けて無くなりたいのは山々だが、しかし、今の僕には時間がない。
深呼吸をして、何事も無かったような表情でコンビニに入る。
当然ながら用事など無いコンビニほど迷宮に近いラビリンスはない。
一体、店内をどう歩けばいいというのか。
不幸中の幸いは店内に客が全く居なかったことだ。
試しに気の向くまま、意思の無いお掃除ロボットみたいに歩いてみた。
すると、商品を陳列していた店員が不審そうな眼差しで僕を警戒する。
一気に居心地が悪くなった。
しかし、そのおかげなのか、先程の不安や困惑が徐々に和らいできた。
一先ずの目的は果たせたか…
そう自分に言い聞かせていると喉が渇いている事に気付く。
ちょうど冷蔵庫の前だ。
何を飲もうかと冷蔵庫のガラス扉を開けてみるが、手が勝手にコカ・コーラを選んでいた。
あれっ?
何故か、手に取ろうとしたコカ・コーラの隣にワインレッド色の懐かしくも哀愁を漂わす携帯電話が置いてあった。
あまりにも自然に陳列されていて見逃しそうになったが、はっきりと携帯電話と認識した瞬間から違和感と怪しさが増し始める。
誰かの悪戯か?
周囲を見渡すが、店員は弁当の棚に商品を並べている最中だ。
相変わらず僕以外に客は居ない。
ちょっとした恐怖心と好奇心に苛まれながらも、何かしらのヒントになるかもしれない。
そんな藁をも掴む思いで携帯電話を手に取ると、万引きに似た罪悪感を抱きながら、そっとズボンのポケットに入れた。
店員は相も変わらず退屈そうな表情で弁当を並べ続けている。特にバレた様子はない。
それから改めて店内を廻るが結局、コカ・コーラだけを購入すると、足早にコンビニから出た。
さて、これからどうしようか?
完全に行き詰った僕はとりあえず乾いた喉を潤そうと店の前でコカ・コーラの蓋を開けた。
その瞬間、先程コンビニで盗んだ携帯電話がポケットの中で小刻みに震え出した。
驚きと戸惑いで持っていたコカ・コーラを少し零しながらも、慌ててポケットから携帯電話を取り出して液晶画面を確認する。
しかし、電話番号だけしか表示されていない。
誰からの着信か分からない独特な恐怖心を抱きながらも、今の行き詰った僕に失うものなど無かった。
勇気を出して震える指先で通話ボタンを押した。
「もしもし」
「やっと出たわね。涼子よ」
女性の声だ。
涼子? 僕の知っている涼子か?
「ブラックバードからの伝言よ。今から言う場所に行きなさい」
僕の知っている涼子で間違いないようだ。しかし、再び困惑が困惑を呼ぶ状況に陥る。
実家に帰ってきただけなのに。なんて日だ。
「待ってくれ。どうして、この携帯電話に涼子が掛けてきたんだ?」
「その答えも今から言う場所に行けば分かるわ」
今、この瞬間に答えが知りたいのに、どうも今すぐには教えてくれないようだ。
ここは冷静に対処しよう。これがラストチャンスかもしれない。
「何処に行けばいい?」
「浦安公営墓地よ」
ボソリと一言だけ言い残した涼子は一方的に電話を切った――
浦安公営墓地…
僕が通っていた小学校の近くにある小さな墓地だ。
そんな場所に何があるんだ?
色々と過去の記憶を巡らせるが思い当たる節は無い。
とは言え、どうやら、悩んでいる暇は無さそうだ。
確か、ここから浦安公営墓地まで歩いて15分程だったはず。
手に持っていたコカ・コーラを一気に飲み干すと、焦る気持ちを抑えられない僕の足は小走りで涼子の告げた浦安公営墓地へと向かっていた。
6年間通ったはずの小学校。
もう何十年も経てば、その記憶さえ疑わしくなるほど遠くまできてしまったようだ。
その代償なのか、あの頃と変わらぬはずの正門でさえ、僕を無視するように錆びついていた。
そんな老化した正門を、僕は僕でお返しとばかりに、何食わぬ顔で無視するように通り過ぎる。
すると、すぐに見覚えのある小さな公園に突き当たった。
中央に青い小さなジャングルジム、一番奥の角には錆びれたブランコ。
配置も色合いもあの頃のまま生存している。
この公園の思い出を遡るが、然程の記憶は残ってない。
せいぜい学校帰りに何度か時間潰しに遊んだ程度の古ぼけた映像が何となく思い浮かぶ。
しかし、そんな記憶も今となっては本物なのか偽物なのか、全くの区別が付かないでいる。
そんな曖昧な細い吊り橋を渡るように怯えながら公園に入る。
平日の中途半端な時間では誰も居ないだろうと高を括っていた。
そんな予想に反し、公園には、大きな麦わら帽子を被った白いワンピース姿の女性が白いベンチに座っていた。
生暖かくも涼しい風が女性の肩まで伸びた黒髪を揺らす。
「やっと来たわね」
僕がここに来る事を予測していたように呟いた女性は重い腰を上げるようにゆっくりと立ち上がる。
大きな麦わら帽子で顔が隠れているが、声を聞いただけで正体はすぐに分かった。
しかし、胸の奥に蠢く騒めきが不安と共に激しさを増す。
何故なら、僕が最後に見た涼子の髪型は金髪のショートヘアだったからだ。
それが今では全くの別人に思えて仕方がなかった。こんな短期間で女性の髪は肩から腰近くまで伸びるものなのだろうか?
「なんで涼子がここに居るの?」
「なんでって、ブラックバードに頼まれたからに決まってるじゃない」
至極当然のように言い切った嘘。
未だに表情は見えないが、彼女が魔女に思えてきた。
或いは、彼女は自分の背後に大鎌を隠し持ち、隙あらば僕の息の根を止めるのではないだろうか?
「ブラックバードは始めから存在しなかったんだよ。誰かに聞かなかった?」
そんな僕の問いに対し、涼子は始めて僕と視線を合わせた。
間違いない。
髪型は異なるが眉を顰めて首を傾げる仕草は涼子そのものだ。
「何をおかしなことを言っているの? そこに居るじゃない」
そう平気で嘘を言い放った涼子は徐に右腕を上げて僕に向かって指を差した。
本当に嫌味な女だ。
「そうだよ。僕がブラックバードだったんだ。笑えるだろ?」
僕はもう自虐的に返すしかない。
しかし、涼子は無表情のまま、僕に向かい指を差したまま首を横に振る。
一体、何が違うというのだろうか?
試しに涼子が差す方向に振り返ると、そこには黒い羽を派手に散らした一匹のカラスが倒れていた。
更にそのカラスを無数のカラスたちが取り囲んでいる。
一体、何をしているのだろうか?
カラスたちはその黒く輝く鋭いクチバシを駆使して、倒れているカラスの身体を勢いよく突き刺し、内臓を抉り出している最中だった。
そんなグロテスクな光景を見て、何故か、僕の内心は恐怖心や嫌悪感よりも懐かしい感情が沸き上がっていた。
僕はこの光景を、何処かで見た気がする…
次第に倒れたカラスの腹部から綺麗なピンク色の内臓が溢れ出てくると周囲のカラスたちは我先にと奪い合うように捕食を始める。
とても残酷な光景なはずなのに、何故か、倒れたカラスは微笑を浮かべているように見えた。
そう、過去に見た光景も、今と全く同じで、倒れたカラスは幸せそうな微笑を浮かべていた……
涼子が言う通り、確かに、あれはブラックバードだ。
僕が現実を受け入れられず、煩わしい原因の全てを擦り付けて誕生した僕のもうひとつの人格。
だが、これでは駄目なんだ。
この人格に陥った直接的な切欠を見つけなければ、本当のブラックバードには辿り着けない。
無力感で一歩も動けなくなった。そんな頼りない僕の手を、涼子の小さくも柔らかい手がそっと掴んだ。どういうつもりだ?
「行きましょ」
そう言って涼子は公園の隣にある浦安公営墓地まで僕の手を引きながら歩き出す。僅かに涼子の手が汗ばんでいた。そんな感触だけが今はとても頼もしく思える程に僕は弱っているようだ。
目的地の墓地。僕たち以外に誰も居ない。しかし、微かに線香の匂いが漂っている気がした。しかし、それ以外には音も色も奪われたように灰色の三次元世界を創り出し、僕たちを拒絶しているようだった。
それでも涼子の足は止まらない。
全く迷いの無い勇ましい足取りが、勇者のように思えて心強い。
「ここよ」
涼子の足が止まると目の前にはたくさんの雑草が生い茂った墓石があった。
涼子は何故、この墓地の前で止まったのだろう。
試しに、雑草を掻き分けて墓石を覗き込むと、そこには『渡辺家乃墓』と刻印されている。
「誰のお墓?」
僕の純粋な質問に涼子は答える代わりに視線を落とす。
その視線が僕の背筋を凍らせるが、自然と足が勝手に動いていた。
嫌な予感を巡らせながら墓石の裏側に回り、墓石の主を確認する。
『渡辺桜子』と小さく刻まれていた。
紛れもなくこの墓石は母の墓だ。
それを目にした瞬間、僕の海馬が勝手に走り出し、鎖されていた記憶が呼び覚まされる――
それは僕が高校に入学して直ぐの出来事だった。
何の前触れもなく父親が家を出ていった。
別に夫婦仲が悪かった訳でも無ければ、経済的に貧しい訳でもなかった。
父が家を出て行く理由が何処にも見当たらず、母は随分と困惑していた。
始めはすぐに帰って来るかもしれないと希望を抱き、平穏を装って生活していた。
しかし、結局、父は返って来なかった。
日を増す毎に母は憔悴し、最後には心の病まで患ってしまった。
そしてある日、僕が学校から帰り、台所に向かうと、ドアノブにタオルで首を吊った、既に変わり果てた母の姿があった――
そんな孤独で残酷な現実世界を、当時の僕には受け入れる勇気も器も無かった。
そして激しく世界に問い掛けた。
何故、父は母を置いて出て行ったのか?
そして母はどうして僕を置いて亡くなったのか?
そんな誰からも必要されない僕はこの世界に必要なのか?
僕自身の存在意義が皆無だと世界に言われた気がして、僕も死にたくなった。
寧ろ、僕は死ぬべき人間なのだと思えた。
そんな母の葬儀の最中、僕は自死の方法を頭の中で巡らせていた。
母と同様に首を吊るべきか。
高いビルから飛び降りようか。
いや、誰にも迷惑を掛けないよう海にゆっくりと沈もうか。
だから、母の葬儀など思えていない。棺に納められた母の姿を一度も見ていない。
そして葬儀の帰り道に見かけたのが、小さな公園でカラスの共食いをしている光景だった――
その出来事からブラックバードに出会うまでの記憶を綺麗に包装し、パンドラの箱に封印していた。
そんな空っぽだった僕にアーティストという存在意義を与えてくれたのがブラックバードということなのか?
「いや、お前自身が自分を諦めていなかったんだろ?
だから、その信念が俺を生み出し、今の存在意義を手に入れたんだ。お前はお前が思っているほど弱くない」
ブラックバードの声が何処からともなく、心に鳴り響く。
しかし、辺りを見渡してもブラックバードは何処にもいない。無性に泣きたくなった。
でも、ここで泣いたら何かに負けた気がするから必死で堪える。
そんな大事な時にコンビニで万引きした携帯電話がポケットの中で震え始める。
携帯電話を取り出すと『今から帰る』とだけ綴られた不愛想なメールが届いた。
このメールは、今朝、新幹線に乗った時に送った僕自身のメールだ。
唖然としていると、そんな携帯電話を横取りした涼子は手慣れた動作で携帯電話のボタンを押し始める。
小気味いい音とは裏腹に得体も知れない恐怖が僕に向かって襲い掛かる。
揺さぶり続けられた僕の感情は、現実逃避よりも更に遠くに逃げてしまったようで、既に何処か他人事のように思えてきた位だ。
そんな事を思っていると僕の携帯電話に1通のメールが届く。
差出人を確認すると母親からだった。
『もう、一人でも生きていけるわね』
すっぽりと覆われた雨雲から申し訳なさそうに小粒の雨が降り始める。
その途端、小さな僕の心のさらに奥側を徐々に湿らせ始める。
幼い頃に戻り、優しかった母親に抱き付いて、思い切り泣きじゃくりたい。
そんな衝動を最後まで消化し切れない僕はまだ子供なのだろうか。
そんな、あまりにも生暖かく無情な小雨がアスファルトに染み渡ると線香の香りと混ざり合い、エロティックな香りを漂わせ始めた。
このまま天を仰げば汗も鼻水も涙も全て無かった事にしてくれるだろうか。
「思い出に抱かれたら罪になるのかな?」
「誰にも悲しい思いをさせなければ、罪には問えないでしょうね」
いつに無く神妙な面持ちの涼子という存在が、とても愛おしい存在なのだと理解した。
出来ればこのままずっと僕の近くに居て欲しいと願った。
「私は先に帰るわね。早めに済ませたい仕事が残っているから…」
そう言いながら、再び母親の携帯電を僕に手渡した涼子はゆっくりとその場を去る。
涼子なりに気を使ってくれているのだろうが、先ほど願ったばかりの僕の願いは一瞬にして敗れ去った。
雨雲は次第に東へと流れ、徐々に朱色をした生意気な太陽が顔を覗かせ始める。
その優しくも美しい眼差しに僕は世界の残酷さを改めて思い知り、目眩と吐き気を生じた。
同時に何故か、このタイミングで忘却心中の一節を思い出した。
“覚えてます 覚えてます あなたの手の温もりを…”
この歌詞に出てくる“あなた”とは一体、誰の事を指しているのだろうか?
そして僕は何と一緒に、何に対して”忘却心中”してしまったのだろうか?
今日という一日は、何もかも嫌にさせる濃い血で出来た独立記念日のようだ。
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