灰桜色をした細かな花弁が散りばめられた天井の柄が視界の全てを覆っている……
いつの間にかブラックバードの作業部屋で、しかも全裸で寝ていたようだ。何故だ???
朦朧とする意識の中で状況を把握しようと思い返すが、プロモーション・ビデオの撮影が終わった後に僕とブラックバードは共に帰宅した……
その時に、何故か涼子も一緒に居た気がする――と漠然と思い出した時だった。
「東京ドームの構想は考えているの?」と心配そうに女性の声が聞こえてきた。
振り返ると、そこにはゼブラ柄の奇抜な下着姿の涼子が僕の右足に絡むように添い寝していた。
一体、これはどういう状況なのか!?
激しい動揺は鼓動を速め、思考回路を鈍らせている。
いや、待てよ。
これは夢か?
現実と眠りの淵を彷徨いながら、心地の良い悪夢に踊らされている。
そう考えれば、全て納得が行くじゃないか。そうだ、これは夢だ。
そんな事を考えている僕を余所に涼子は話しを続ける。
「何だったら、東京ドーム公演のライブ構成も私がやってあげましょうか?」
そう言いながら涼子の淡く湿った厚い唇が僕の一番弱い部分に近づいてきた。会話と行動が矛盾している。
これは一刻も早くこの場から立ち去らなければならないと僕は必死でこの場から逃げようと試みる。
しかし、動揺し過ぎた僕の身体はガンジーの意志よりも固く全く動かなかった。
「ねぇ、知ってる? あなたの身体って、とても甘いのよ。特にこの部分」
春先のノルウェーの街並みを思い起こさせるような冷たい涼子の吐息が僕のペニスの先端を優しく吹き撫でる。
その瞬間に生まれたエクスタシーが現実味を咲き誇らせる。
どうやら、夢じゃないらしい。
てっきり涼子はブラックバードと付き合っているものだと思っていた。
故に、この状況は非常に気不味い。
同時に、脳裏から千恵子の放った言葉が鳴り響く。
――何かやましい事でもしていたのかと思って――
その言葉の意味が今になって重く圧し掛かる。
千恵子は僕自身が自覚していない何かを感じ取っていたのだろう。
未だに動けない僕の下半身を一通り味見し終えた涼子の舌は、次に僕の唇に舞台を変えて踊り出す。
そんな涼子の舌に誘われた僕の唇と瞼も何ら抵抗も見せずに濡れ始める。
それは自然な生理現象で何も恥じることは無い。
性欲が無ければ、ここまで人類は進化しなかった。
性行為が無ければ、ここまで人類は繁栄しなかった。
自然の理に僕はただ身を委ねているに過ぎないのだ…
そんな呪文にも似た言い訳を繰り返しながら、不意にブラックバードの存在が気になった。
しかし、周囲を見渡してブラックバードは何処にも居ない。
寧ろ、そんな者は始めから居なかったように記憶の片隅へと追いやられていく。
僕は涼子の事が好きだったのか?
確信も無ければ自信もない。
無自覚のうちに抱いた淡い心と言うには余りにも幼稚で身勝手な感情だ。
同時に思う。涼子はどうして僕を求めているのだろうか?
様々な疑問符が僕の心のセキュリティゲートを通り抜ける度に激しい警報音を鳴らす。
危険な感情ばかりで警備員もお手上げだ。
そんな戸惑う僕を他所に涼子は激しく僕の身体を抱き寄せて、情熱的な接吻を交わす。
その度に全身の熱が更に上昇する。
この状況に慣れてきたのか、徐々に身体が自由に動くようになってきた。
それをいい事に僕も涼子を激しく求めるように抱きしめる。
夜の炎に包まれた二人の身体は蝋燭みたいに儚く溶け出し、ソファーの上は忽ちゲリラ豪雨に遭遇した地下鉄みたいな大洪水に襲われる。
そんな洪水の中、いつの間にか下着を脱ぎ捨てた涼子は生まれた姿のままで美しく泳ぐように僕の身体を舐め回す。
そんな涼子に負けずと僕も涼子の身体を丁寧に吟味すると、お互いの領土を奪い合おうと上になったり下になったりする。
その度に茶色いソファーが自らの意志を持ったように鈍く軋む。
涼子のうなじから漂うシャンプーの甘い匂いが、今夜の僕の思考を完全に破壊した。
しかし不思議と興奮は徐々に去って行く。
寧ろ、これが当たり前の行為に思えて落ち着きを取り戻しつつあった。
そんな心境で涼子のレーズンのような乳首を咥え、寝付きの悪い子供みたいに派手に吸う。
そんな僕の滑稽な姿を見て、涼子は笑みを浮かべながら僕の頭を優しく撫でる。
その笑みは幼い頃に見た母親に似ていて不意に切なさが押し寄せてきた。
そして何より罪悪感に溺れそうな気がして自然と涙が流れていた。
誰に対しての罪悪感なんだろう?
ブラックバード?
涼子?
千恵子?
それとも自分自身?
そんな事を考えていると意識が徐々に遠ざかる。
「違うよ。僕はブラックバードじゃないよ」
今更になって弁明するように訴えるが、涼子は優しく微笑み浮かべる。
そして「大丈夫よ。あなたはよく頑張っているわ。私が保証するから、今はお休みなさい」と無償の愛を与えるように優しく髪を撫で続ける。
もう少しで僕の意識が宇宙の彼方に届く……
その先はセピア色に染まった記憶の中で、、、
僕と涼子の身体がバターみたいに融け合いベッドの上で液状化すると、、、
その液体が近くの用水路から海に向かい流れて行き、、、
最終的には太陽の光が届かない暗黒が支配する深海の底まで辿り着いた。
水難事故に遭い、無人島に流れ着いたような気分で目を覚ます。
近くに涼子の姿は無かった…
やはり夢だったのか。
妙にリアルな感覚と温もりが今もソファーの上を彷徨っていた。
昨夜は何時頃に就寝したのだろうか?
時刻は午前10時を過ぎていた。
睡眠時間が気になるところだが、このままブラックバードの作業部屋に居座り続けるのは落ち着かない。
それにしても一体、ブラックバードは何処に行ったのだろうか? 一秒でも長く休息してほしいのに。
結局のところ、帰宅して昨夜から今までブラックバードの姿を一度も見ていない。
こんなにも家に居ないなんて珍しい事もあるものだ。
重い身体を無理に起き上がらせて、長い階段を伝って1階に降りると既に千恵子が机に座ってパソコンと睨めっこをしていた。
「思ったより早い起床ね。昨日は随分と遅かったんでしょ?」
千恵子は僕の顔を一度も見る事無く話し掛けてきた。
随分と久々に会話を交わした気がする。
もう怒っていないのだろうか?
「うん、それよりもブラックバードを見なかった?」
僕の言葉を聞いて千恵子は始めて僕の顔を見た。
「知らないわ。それよりもアルバムの方は間に合いそうなの? あと何曲だっけ?」
素っ気ない返答と共に千恵子は再びパソコン画面に視線を戻した。
随分と寂しいリアクションだ。それにその質問は僕じゃなくて、ブラックバードにしないと答えられない質問だ。
千恵子だってそれ位は理解できるだろうに… あれっ?
千恵子をぼんやりと眺めていると、視界の片隅から白い靄が現れた。
それはおかしい。
ここは外じゃないし、今は料理もしていない。この中でタバコを吸う人間も居ない。煙が発生するような要因は皆無なはずだ。
両目を擦って、再び周囲を見渡すが視界の白い靄は消えない。寧ろ、徐々に濃くなってきている。
困惑している僕に追い打ちを掛けるように、今度は後頭部から鈍器なような物で殴られたような激しい痛みに襲われる。、
そのはずみでジェットコースターを8回連続で乗った直後のように方向感覚が失われた。
どちらが天井でどちらが床面なのか?
どちらが天国で地獄なのか?
両足に力を入れて倒れないように踏ん張ってみるが、足は既に小刻みに震えている。
このままでは倒れてしまうと近くに壁に寄り掛かろうと一歩動いたが、時すでに遅し。
地球の重力が僕の身体の自由を一瞬で奪い、操り人形の糸を大きな太刀バサミで全て切られたように、僕はその場で呆気なく崩れ落ちた。
「ちょっと! 大丈夫!」
慌てふためきながら大声で叫ぶ千恵子の声が徐々に遠ざかる。
まるで世界の終わりを迎えるように、ゆっくりと記憶が途絶えた――
ゆっくり目を開くと、白い天井が僕の存在を嘲笑うように視界全体を支配している。
独特なこの模様は事務所やオフィスビルなど公共施設でよく見る柄の天井だ。
周囲からアンモニア水を薄めたような独特な匂いに包まれていた。
いつの間にか寝かされている白いベッドは僕を冷たくあしらっているようで、妙に居心地が悪かった。
ここは、どこだ?
朦朧とする意識の中で今までの経緯を思い出そうとするが片頭痛が思考を停止させる。
「目を覚しましたか?」
随分と年季の入った声質をした男性の声が耳に届くが、誰の声なのか全くの検討も付かない。
すぐに見知らぬ天井の左端から白髪交じりの老人が顔を覗かせた。やはり見知らぬ老人だ。
少し驚いたが、その老人が浮かべる優しい微笑から敵対心のようなものは感じられず、僕はただ老人から発せられる言葉を素直に待ち続けていた。
「私はこの施設で代表を務めている鈴木と申します」
鈴木と名乗った老人の丁寧に編み物を紡ぐような物言いに一種の心地良さに酔いしれて、危うく油断するところだったが気になる単語を発した。
“この施設”
心が僅かに震えた。
確か、僕は千恵子と会話をしている最中に倒れたはずだ。
そうなると、どうやら、そのまま病院に運ばれたという事か。
その証拠に僕の左腕には点滴針が刺され、今も透明な液体を体内に流されている状態だ。
それを今になって気付く辺り、相当の時間を睡眠に割いていたようだ。
過労で倒れたか…
確かに、最近は仕事が立て込んでいた。
しかし過労で倒れる程でも無いだろう。
「渡辺さん、ここが何処か分かりますか?」
鈴木先生が心配そうに尋ねて来るが、何と返せばいいのか分からない。
もちろん、ここが何処か分からない。
過労で倒れたのだから、近くの総合病院と言ったところだろうか。
そんな事よりも今、ブラックバードは何をしているのだろうか。
それ以前に、僕はどれくらい眠ってしまっていたのだろうか。
新曲の宣伝に関する打ち合わせがあったはずだが… 痛っ! 何かを考えようとすれば、思考を止めようと片頭痛が僕を襲う。
「渡辺さん、聞こえてますか?」
不安を隠さない鈴木先生の声が完全に僕の心を現実に引き戻そうとするが、それでも片頭痛の猛攻は止まない。
「何処の総合病院ですか?」と僕は尋ねる。
久々に話したせいで声がかすれ切って滑舌が絶望的で聞き取りにくそうだ。
しかし、鈴木先生はすぐに僕の言葉を聞き取り、何事も無かったように冷静に、あくまで冷静に僕の質問に答える。
「いいえ、ここは東京都立総合精神医療センターという施設です。残念ながら一般的な病院とは異なります」
ここが病院でない事実と聞き慣れない施設名。
想定外の返答に今までとは異なる種類の困惑と恐怖が生まれ始める。
「私は精神医療を専門とし、今までもたくさんの患者さんを診てきた実績があります。
なので心配ありませんよ、渡辺さん。あなたの病気も必ず治ります。まぁ、多少の時間は掛かると思いますが」
鈴木先生は後頭部辺りの白髪を指先で掻きながら恐縮するように軽く会釈をする。
いやいや、この先生は一体何を仰っているのだろうか?
聞き間違いか? それとも悪い冗談か?
精神医療? 病気? 多少の時間は掛かる?
何の準備もしていない僕の心を簡単に突き刺した鈴木先生の優しい刃を要約しようと脳内変換を試みるが、何の変換も出来ないまま思考は停止している。
「僕は健康ですよ。一体、何の病気に罹っているんですか?」
そんな僕の問いかけた途端に背後から急激に漠然とした恐怖が悪寒と化し迫り来る。
しかし、この恐怖に怯えている時間は無い。
ブラックバードはこれから更なる高みに向かって羽ばたこうとしているのに、そんな大切な時期に僕が病気なんかで休んでいられない。
可能ならば、治療と仕事を両立させてでもブラックバードを支えないといけない。
もちろん、病気の種類にもよるのだが…
不思議とブラックバードの存在を思い浮かべただけで前向きになっている自分が居る。
大丈夫だ。今の僕には帰るべき居場所がある。
今まで当たり前だと思っていた存在が逆境に立った瞬間から、とても尊い存在だと気付けた。
どんだけ頼もしいんだ。ブラックバードという存在は。
それが実感できただけでも収穫か。
そんな希望を無理矢理に沸き上がらせた幼気な僕に対し、今までの穏やかな表情を全て殺したような真顔の鈴木先生が少しの沈黙を置く。
そして判決を言い渡す裁判長のように無慈悲な口調で、この世の終焉に等しい程の病名を告げる…
「あなたが罹っている病気は『解離性同一性障害』。所謂、多重人格障害と呼ばれる精神病です」
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