もう岡山に用事など無い。
それなのに僕は目的もなく旭川の土手沿いを彷徨うように歩いていた。
まるで、フランス革命から命辛々逃れた革命家のような心境で彷徨っていた。
すると、遠くの方に岡山市民会館が見えてきた。
ブラックバードが全国ツアーを行った会場のひとつだ。
あれから約4カ月が経ったのか…
まさか、こんな状態に陥るなんて夢にも思わなかった。
あの日のコンサートもブラックバードらしくステージ上を羽ばたいていた。
目を閉じただけで瞼の裏で蘇る。
それが今では…
「はぁ…」
現実に戻されると同時にため息が漏れる。
そんな岡山市民会館の遥か彼方、茜色に染まった西の空へ向かい一羽のカラスが羽ばたく。
その様がブラックバードと重なり、僕から遠ざかっているように見えて計り知れない孤独に襲われる。
もうブラックバードはこの世界に居ない。
僕に残されていた希望は、もう完全に砕け散って幻と消えてしまったのだ。
「まるで、世界の絶望を独りで抱えて込んだ表情をしている」
不意に僕の背後から懐かしくも妖しい男の声が聞こえた。
まさか、いや、まさか、そんな事はあり得ない。
疑いと驚きを混じらせながら声がした方にゆっくりと振り返る。
夕陽が逆光になり、眩しくて思わず細めた視界の先に、その黒い仮面を掛けた男は立っていた。
「おい、今まで何処に行ってたんだよ!」
「まるで恋人みたいな物言いをする」
「そんなに気持ち悪い言い方はしてない」
「ずっとお前の中に居たよ。そして、これからも」
その声は確かに、毎日のように聞いていたブラックバードの声だ。
しかし、同時にその声は僕自身の声なのだろうが…
自分の声を録音機材で改めて聞くと違和感があるように、ブラックバードの声をどうしても自分の声と認識する事が出来ない。
そんな戸惑いを余所にブラックバードはいつもの調子で問い掛ける。
「種明かしをされた手品に何の価値もないと思うか?」
その問いの意図が分からず、僕は思わず首を傾げる。
そんな僕の間抜けな様子にブラックバードは呆れたように肩を竦める。
「種を明かされたのは客じゃない。マジシャンであるお前にだけだ。だから、その手品はまだ使える」
そう言いながら、黒い仮面を徐に外す。
その光景は病室で既に見ている。
どうせ、その後は全身が輝きだし、また僕の前から消えてしまうのだろう。
そんな諦めの境地で眺めているが、今回は輝かないし、消えもしなかった。
そればかりか、素顔がはっきりと確認できる。
どう見積もっても、僕の顔をした、ブラックバードがそこに居る。
「俺の人格を構成したのはお前自身だ。つまり、ブラックバードの世界観を創り出したのもお前自身なんだ。だから、もっと自信を持て」
ブラックバードの理屈は分かる。
それでも、、、
「無理だよ。僕には何の才能もない。ただブラックバードの支えになればいいと思っていた他力本願で怠惰な人格なんだよ。
だからお願いだ。今までみたいに、僕の近くでブラックバードの世界観に触れさせてくれよ」
聞き分けの無い子供みたいに、ただ否定する事しかできない。
我ながら弱過ぎて情けない。
「それは無理だ。お前は悲しい過去を思い出しても正気を保てている。それは何を意味するか分かるか?」
ブラックバードの問いに僕は全くの検討も付かないフリをした。
そう、ブラックバードに言われるまでも無く、とっくに理解していた。
でも、それ以上に恐怖の方が勝っている、弱い僕はこの期に及んで未だに逃げ道を探している。
何とも卑怯な人間だ。
そんな僕に対しても、ブラックバードは励ましの言葉を投げてくれる。
「自分自身で過去を受け止め、お前の意志で前に進もうとしている。
あの頃とは違い、一歩踏み出す勇気を持ったんだ。だから… 俺はもう必要ない」
そう言い切ったブラックバードは少し寂しそうに頷いた。
その表情を見て、本当はブラックバード自身も消えたくない事が切実に伝わってきた。
心が切なさに支配され、その切なさの根源が自分の弱さにある事を痛感させられる。
「だから、これからはお前らしい、ブラックバードの世界観を創造すればいい」
「僕らしい? 出来るのかな、そんなこと」
「大丈夫だ。あの頃とは違い、今のお前には支えてくれる人がたくさん居る。
それは必ずお前の翼になる。
だから、お前は周囲への感謝を忘れず、恩返しの念を込めて、自由に羽ばたけばいい。
東京ドームの空を飛びたいように飛べ」
そう言いながら、ブラックバードは持っていた漆黒の仮面を僕に託すように手渡してきた。
そして先程の寂しさを吹き払うように、穏やかな笑みを浮かべる。
僕はこんな風に優しい笑みを浮かべる事が出来るのか。
そう思いながら受け取った漆黒の仮面は前回に受け取った時よりも随分と重く感じた。
「さぁ、その仮面を被って俺を超えていけ。それがお前と俺の存在意義だ。そうだろ?」
そう言いながら、もう一人の僕が僕の背中を押す。
そんな強引に押されても、、、
仮に、立派な翼を持っていても、、、
まだ飛び方を知らない僕では自由に空を飛べやしない。
そんな戸惑いを抱きながら振り返る。
しかし、そこにブラックバードの姿は既に無かった。
代わりに、夜の帳が落ちている最中の無限に広がる宇宙の断片が広がっていた。
まるで、楽園の最果てを彷徨っているような心地よくも不安定な錯覚に陥る。
僕の心の中には、更に多くの不安たちが優雅にワルツを踊っている。
この楽園を抜ければ、何処に繋がっているのだろうか?
手に持っている漆黒の仮面を掛ける。
しかし、視界は少し狭まるだけで、新しい景色は見えてこない。
試しに両手をいっぱいに広げてみる。
やはり、飛び方なんて分かる筈もなく、オーケストラの指揮者みたいな姿勢で静止するだけだ。
この場に留まっていれば不自由と呼ばれる幸せに包まれ続けられると分かっている。
それでも歩みを止めないのは僕がまだ僕自身に絶望していない証拠なのだろうか。
或いは、まだブラックバードに依存しているだけなのだろうか。
どちらにしろ、この楽園から抜け出そう。
例え、外の世界が争いばかりの無慈悲な現実だとしても、それがブラックバードと僕が選んだ道なのだから―――
まだ間に合うか。
慌てて岡山駅に向かい走り出すが、その足取りに躊躇いも戸惑いもなかった。
当初の目的だったブラックバードを取り戻す事は果たせなかった。
しかし、目的以上のものを手にする事が出来た気がする。
もうブラックバードは居ない。
ならば、自分で何とかしないといけないんだ。
そう自分に言い聞かせて最終の新幹線に飛び乗った。
閑散とした車両の隅にある窓際の席に着くと母親の携帯電話を取り出した。
『もう、一人でも生きていけるわね』
涼子から送られてきたメール…
違うよ。
僕は一人じゃないんだよ。
そんなメールを返信しようと思ったが、どうせ行き着く先は、僕が持っている母の携帯電話だ。
暗い窓ガラスから跳ね返った自分の顔が、戦地に向かう若い兵士のような悲壮感に満ちた表情を浮かべていた。
人間はそう簡単に変われはしない。
だけど、変わろうとする意志が無ければ、人間は一生変わる事など出来ない。
そんな当然な摂理を今になって改めて理解できた。
手に持ち続ける漆黒の仮面を強く握りしめながら、そっと目を閉じて自分に問う。
僕は本当に変わる事が出来るだろうか?
そして自分なりのブラックバードを表現できるだろうか?
空を覆う雨雲は僕の心までも塞いでいるようで、歩いている足が重くなる。
あれから、僕は僕なりのブラックバードを探ろうと藻掻き苦しんでいる。
そんな苦痛の中でも月に1度のカウンセリングはやってくる。
鈴木先生との約束を破る事は出来ない。
渋々ながらも、東京都立総合精神センターに到着した。
施設に入るといつもの受付嬢が無表情で事務的な会釈をしてくる。
僕も曖昧に会釈をしながら、受付番号の紙を取るが、そこに言葉は存在しない。
そして平日の午前8時という事も手伝い、僕以外の患者は居ない。
ただでさえ無駄に広い待合室が、更に孤独へと誘うような孤独を飼いならす空間になっていた。
そんなソファーに座り待ち続ける事15秒――
「受付番号1番の方、302号室へ向かってください」
マイク越しに聞こえる受付嬢の乾いた事務的な口調が広い待合室に響き渡る。
念の為、先程取った受付番号の紙を確認するが間違いなく『受付番号・1番』と書かれている。
座ったばかりでまだ疲れが取れていない脚を無理に動かし立ち上がり、受付嬢に言われた通り3階にある302号室へと向かった。
病院に似た造りの長い廊下を歩き続けるが、その間に患者とも先生とも出くわす事は無い。
故に声も物音もしなければ、外からの騒音も一切入って来ない。
唯一耳に入る自分の足音だけを聞き続けていると月面を浮遊している気分になり現実が遠ざかりそうになった。
そんな感情のまま302号室の扉まで到着すると毎回のように変な緊張感を抱く。
しかし扉の扉を潜らなければ目的が達成できない。
躊躇う弱さを押し殺して扉をノックする。
「どうぞ」
扉の向こう側からすぐに返事が返ってきた。
いつもの優しい初老の声の言う通り、ゆっくりと扉を開ける。
すると、いつも通りの一番奥にある机に向かい何か書き物をしている鈴木先生が座っていた。
花瓶の一つもない殺風景な部屋。
壁も天井も机も椅子もベッドのシーツも白い部屋。
おまけに先生の白衣も当然ながら白い。
そんな白に覆われた部屋に入ると、毎度の事ながら方向感覚を失いそうになる。
「どうぞお座りください。顔色は良さそうですね」
優しく微笑む鈴木先生は正面の丸椅子に僕を招く。
そんな椅子に座った途端に先生の背後にある窓から中庭の風景が視界に入ってきた。
そんな中庭では淡い瑠璃色の紫陽花が満開に咲き誇っている最中だった。
その誇らしさがライブ中のブラックバードみたいに輝いているように映った… まただ。
普段、僕が生活する中で美しい物を目にする度にブラックバードの姿を重ねてしまう。
六か月後に控える東京ドーム公演が僕を焦らせているのだろうか。
「早速ですが、カウンセリングを始めましょうか。この1カ月で何か変わった事はありませんでしたか?」
鈴木先生とのカウンセリングはいつものこの質問から始まる。
だから、僕が話すべき内容も予め決まっていた。
「この前、故郷の岡山に戻ってきました。
そこで過去のトラウマを突き止めることが出来ました」
僕の懺悔に似た告白にも、鈴木先生は顔色一つ変えずに耳を傾ける。
「そしてブラックバードが生まれた原因も分かりました。
先生の言っていた通り、現実逃避から生まれた人格。
いや、僕の弱さが生んだ命の恩人でした」
鈴木先生は未だに僕の目を真っ直ぐ見たまま、辛抱強く黙って聞き続ける。
「ブラックバードは僕の憧れそのものでした。
才能や度胸、カリスマ性みたいな求心力。
僕が持って無い全てをブラックバードは持っていた。
だから、僕はブラックバードになれない。
だけど、せめてブラックバードの近くに居たかった」
僕の身勝手な願望を最後まで黙って聞いた鈴木先生は何度か小さく頷く。
そして慎重に言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。
「本当にそうでしょうか?
人間とは常に他人とつい比較してしまう悲しい生き物です。
勝手に憧れ、勝手に嫉妬し、勝手に絶望する。
それは自分という基準が存在するからです。
逆に言えば、自分という基準を失った人間は何処に向かって旅立つのでしょうか?
翼を失った鳥はどうやって旅立てば良いのでしょうか?」
鈴木先生はそう言いながら、僕に背を向け、窓から見える静寂に包まれた中庭を眺める。
満開に咲き誇る紫陽花の横にはポプラの木が青々とした葉を精一杯に蓄え、これから到来する夏に備えていた。
散る命があれば、生まれる命もある。
そんな生命の縮図を分かり易く凝縮した配置になっている事に今更になって気付き、僕は思わずうろたえた。
同時に、鈴木先生の話に出てきた翼を失った鳥の姿を具体的に思い浮かべてみた。
小さな体を小刻みに震わせながら、クチバシを大きく開くが僅かに鳴く事しか出来ない弱弱しい小鳥――まるで今の僕だ。
そう理解したと同時に、この中庭を見てうろたえてしまったのは、今の僕にとって生命というテーマがあまりにも重過ぎて、全てを抱えきれないからだ。
そんなどうでもいい事を考えていると、沈黙を裂くように再び鈴木先生が話しを続ける。
「恐らく、飛べなくなったとしても、鳥は旅を止めないでしょう。
例え、這いつくばってでも、自分が求める理想郷を目指すはずです。
渡辺さんならどうしますか?
いや、どうしたいですか?」
鈴木先生の鋭い眼差しが僕の弱い心に問い掛ける。
その瞬間、何故か“飛べない鳥の旅路”という単語が僕の脳裏を横切った。
その時、妙な気配を背後から感じた。
咄嗟に振り返るが、そこには誰も居なかった。
しかし『今のお前にはたくさんの支えてくれる人達が居る。それは必ずお前の翼になる』
その日のブラックバードの言葉が、心の内側から重く響いてきた。
先ほど、頭の中で抱いていた弱弱しい鳥が必死に藻掻くように飛ぼうとしている。
「先生、どうやら僕にはまだ、翼があるみたいです」
物心が付き始めた頃、豪華な客船に乗って、優雅な生活を過ごすセレブに憧れた。
恐らく、無い物ねだりの性格をした上に、とても平凡な人生を歩んでいた僕からすれば、豪華な生活がとても美しく平和に映ったのだろう。
それが最近では、平凡な人生が羨ましいと思うようになっている。
そんな思考に陥った原因は間違いなくブラックバードの存在だ。
実際は豪華で優雅な生活をしている訳では無い。
しかし、それなりの印税に、それなりの地位をブラックバードとして手にした。
ある程度の承認欲求みたいなものは満たせている。
その代償がブラックバードとして生活を強いられる不自由な日々だ。
そんな現実を目の当たりにした途端、隣の芝が青く見える身勝手な思考を持っている自分に嫌気が差す日々。
結局のところ、現状に満足できない人間は、
幾ら膨大な富を手にしたところで、
どんなに偉大な功績を得たとしても、
永遠に満足なんて出来ない仕組みになっているのだ。
だとすれば、希望の見えない毎日でも、自分を騙して、現状に妥協しながら貴重な時間を殺しながら生きるべきなのか?
いや、それでは向上心が失われてしまう。
それは自分の存在意義を失くす事を意味する。
人生とはゴールのないマラソンを強制的に走らされている様なものなのかもしれない。
そう考えると、人生とは何とも卑劣で残酷な神様のお遊戯だ。
最近では東京ドームのステージに上がり4万人もの観客の前に立った瞬間、歌詞を全て忘れてしまう悪夢をよく見る。
演奏は始まっているのに、歌い出しの歌詞が全く出て来ない。
そんな惨めにうろたえる僕を、4万人の群衆が嘲笑いながら、冷たい視線を僕の全身に容赦なく突き刺す。
そこでいつも目を覚ます。
全身には大量の汗が滲み出て、息を整えながらベッドの横に置いてある水の入ったペットボトルを手に取ると一気に飲み干す。
そしてブラックバードが途中まで書いた作詞の続きを考えるが、全く言葉が生まれて来ない焦りに溺れそうになる。
そんな地獄のような日々。
岡山でブラックバードに励まされ、カウンセリングで鈴木先生の言葉を聞いて、前向きになれたと思っていた。
しかし、いざ困難を目の当たりにすると心が荒んでしまう。
“三つ子の魂百まで”とはよく言ったものだ。
やはり、人間はそう簡単に変われないのだと身を持って痛感させられる。
どんなに窓の外が清々しく希望の光に満ち溢れていても、僕の心はいつも梅雨空のまま。
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