2009年10月に公開した「楽園に対する定義とその副作用について」の基となった物語です。
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「後悔したくないと思っているうちは、まだ子供なんだよ」
今考えれば、その言葉が父親の最後の言葉だった。
それが結果的にそうなっただけなのか、予めそう決めていたのかまでは分からないし、
それはもう一生分からないことなのだ。永遠に。
父親が死んでもう20年という歳月が過ぎ去ってしまった。
時間とは残酷なものだ、と最近になって思う事が増えた。
死んだ者は当然ながら死んだ時を境に時間が止まってしまう。
しかし生きている者はそうもいかない。
時間は容赦なく、こちらの都合も考えずに時間を進める。
しかも一定でいて、正確でいて。そして確実に進める。
その事実は僕が今年で父親と同じ歳を迎える事で証明している。
母親とはもう何年も会っていない。
そして腹違いの弟とも同様に会っていない。
どこで何をしているのかさえ知らない。知りたくもなかった。
しかし歳を重ねる毎に身内という存在に対して、特別な何かを強く感じるようになってきた。
昔は全くと言って良いほど夢を見なかった。
もしくは夢を見ても目覚めた瞬間には忘れていただけなのかもしれないが。
最近はよく夢を見るようになり、はっきりと覚えている。
蓮華の咲き乱れる草原がこの世の果てまで広がる場所。
幼い僕は草原を走り回りながら無邪気に笑っていた。
僕の後ろを弟が必死で追いかけてきていた。
そんな僕たちの姿を父親と母親は木製ベンチに腰掛けてふたり寄り添いながら見守っていた。
それ以外には何も存在しなかった。しかしとても幸せだった。
当たり前という名の存在がこの世で最も大切なのだと思い知らせてくれている刹那だった。
目を覚ますと僕は涙を流していた。
今頃、母親は、そして弟は何をしているのだろうか?
しかし連絡先は分からない。この先、もう一度でも会えるかどうかも分からない。
そんな事実に気が付くと、涙が再び流れ始めた。
月曜日の朝。
「ドウジョウシマス チュウイシテ クダサイ」
(MEIKO)楽園に対する定義とその副作用について(オリジナル楽曲) – YouTube
楽園に対する定義とその副作用について(オリジナル曲)/Vocaloid-MEIKO – ニコニコ動画 (nicovideo.jp)
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